『うみのカカシ』の葬儀は静が喪主になった。イルカが強く希望したのだ。
カカシの遺体が握っていた銀細工の簪の話に静は泣いた。その話は、静だけでなく皆の涙も誘い、イルカは内心、コノヤロウ、とカカシに毒づいた。
あれこれ雑務を済ませ、カカシの葬儀の一週間後、イルカは白糸の街をでることになった。このまま暮らせばいいと皆に引き止められたのがなんだかこそばゆい。それなりに自分も好かれていたらしい。
火葬にしたカカシの骨はイルカが一族の墓に入れるからと持ち帰ることにしていた。火葬と同時に分身は消えるので、骨を拾う段でイルカが急遽チャクラでこさえたのだ。静が分骨を断らなかったら、どこからか骨を調達してすり替るはめに陥っていたかと思うと、もう一度イルカはコノヤロウ、とカカシに毒づいた。
出立の朝、イルカは静の居間で荷物をまとめていた。まだ早いというのにアブラゼミがジージー鳴いている。今日も暑くなりそうだ。静が水筒と握り飯を台所から持って出てきた。
「こんなものですけど、お昼にあがってくださいな。」
「ありがとうございます。」
受け取りながら、イルカは胸が塞がった。ついこの間まで、この居間にはカカシがいた。そして自分まではいりこみ、随分と賑やかだったはずだ。だのに今日から静は一人だ。誰もいなくなった居間で静は泣くのだろうか。静の生活はここで続いていくというのに、平穏な生活に入り込み大きく傷つけてしまった。改めて自分たちの罪深さにイルカは暗澹とする。
「あの、静さん…」
「あのねぇ、イルカさん。」
何を言えばいいかわからず、それでも何か励ましたくて口を開いたイルカに、静は柔らかな笑みを向けた。泣きはらしてやつれているというのに、何故かひどく穏やかだ。
「イルカさん、心配してくだすってるんでしょう?」
「あ…」
「イルカさん、あたしが落ち込んで投げやりになっちまうとでも思いました?」
「や、はぁ、実はその…」
その通りだ。カカシのことを忘れられず、静がずっと寂しい生活をするんじゃないかとイルカは心配になったのだ。バツが悪くてイルカは頭をかいた。静はくすくす笑う。それはカカシが何かやらかしたときに向けていた笑みと同じで、イルカは母親の側にいるようなくすぐったさを感じた。
「あたしは悪い女です。あの人が死んで、喜んでいる…」
「えっ。」
静の意外な言葉にイルカはぎょっとした。もしかしたらカカシは静に憎まれていたのだろうか。随分迷惑をかけていたのはたしかだが、静がカカシを愛おしんでいると思っていたのは自分だけだったのか。あわあわと慌てるイルカに静はまた笑った。
「誤解しないでくださいな。別に迷惑だったとか恨んでいたとかじゃありませんよ。」
静は穏やかな顔を庭に向けた。
「二十歳の時、隣町の裕福な商家へ嫁入りしたんです。でもねぇ、半年で夫は女を作って逃げました。」
「えぇっ。」
思わず素っ頓狂な声が出た。静はくすり、と肩を揺らす。
「周りはね、あたしのせいじゃない、運が悪かっただけだって慰めてくれましたよ。また新しい人を作ればいいって。実際、離縁した先方からは一生食べていけるだけのものをいただきましたし、若かったあたしには降るほど縁談もありました。でもねぇ…」
庭木が夏の陽射しをちらちらと反射して、静は目を細めた。
「もう心がね、踏み出せないんですよ。人が怖くてたまらなくなる。頭じゃあたしは悪くない、また誰かを愛したい、そう思っているのに、だめなんですねぇ。」
静は裏切られた女だから、そうカカシは言っていた。だから『うみのカカシ』は静だけを愛したまま死ななければならない、と。
「あの人を拾ったのはね、成り行きもありましたけど、わかっていたからなんですよ。あの人は一所に留まる人じゃあない。いつかはいなくなる人だって。その方が気が楽だと思ったんです。なのに…」
静は悲しげに目を伏せた。
「あの人ときたら、愛してくれたんですよ。あたしだけを見て、何から何まであたしのものになってくれたなんて、ほんとに、自惚れとお笑いになりましょ、イルカさん。」
「いえ…」
その通りだ。カカシは草として静を利用するかわりに、『うみのカカシ』の人生を捧げたのだから。
「いつかはいなくなる人と覚悟はしておりました。ですが、人とは欲が深うございます、いつしかあたしの心に蛇が住みました。もしあなた様があの人を連れて行ってしまったら、きっとあたしはまた動けなくなりましたよ。いつか迎えにきてくれるんじゃないか、他の人のものになどなりはしないんじゃないか、ぐるぐると詮無い事を考えては一つ所を回っていたでしょうねぇ。」
静はふっと遠くを見つめた。その表情はあくまで静かだ。
「あの人は死んでしまった。あたしを愛してくれたまんま、死んでしまった。あの人がいなくなったからといって、あたしはもう待つ事も探す事も必要なくなったんでございます。」
静の指が髪にさした簪に触れた。しゃらり、と小さな音がする。カカシが握っていた銀細工の簪だ。
「あの人の心をもらいました。一緒に前へ進みますよ。きっとあたしはまた、誰か伴侶を得るでしょうね。」
「はい。」
静の目から一筋、涙がこぼれた。遠くを見つめる黒い目から、静かに涙が流れ落ちる。
「うみのカカシは静さん、あなたのものです。」
いつしかイルカの目からも涙があふれていた。
「幸せになってください、静さん、誰よりも兄がそれを願っている…」
こみ上げてくる嗚咽をイルカは堪えた。忍は因果な商売だ。だが、こうやって嘘を徹して、墓場の中まで貫き通して、それで救える人がいるのなら、薄っぺらい誠実さに背を向けるのもいいかもしれない。静はうみのカカシの人生をもらった。そして自分は、はたけカカシに恋をしてしまった自分は…
オレ、もしかして一番貧乏くじ引いたかなぁ…
なんだか涙が止まらない。しばらくイルカは、静と並んで庭を眺めながら、ただぽろぽろと涙をこぼしていた。
白糸の街の大門へは静はもちろん、様々な人が見送りにきてくれていた。花筏の女将は、いまだ学習塾経営に未練があるのか、旗本商売に飽きたら是非ここで教師をするよう資金援助の約束をした。お由はしゃくりあげて泣くばかりで、イルカに撫でられてようやく勉強を続けると一言だけ言う。元締めや男衆は寂しくなると繰り返し、お光っちゃんはカカシの好物だったみたらしをまた食べにきてくれと涙ぐみながら一包みもたせてくれた。
他にも幸吉屋の芸者衆や男衆、ツケの取り立てをしていた手代や茶飲み相手の旦那衆など、短い間によくここまで、という見送りだ。すべてカカシが築いた人脈で、今更ながらに『うみのカカシ』が魅力ある人物だったのだと思いいたる。自分もすんなり人々にとけ込んだのだという自覚はイルカには乏しかった。イルカは己の事には案外鈍感だ。
皆に別れを告げ、イルカは木の葉へと続くなだらかな山道をたどった。この道を歩いたのは五月の終わりだった。たった二ヶ月ちょっとだというのに、ずいぶんと色々なことがあったとしみじみイルカは噛み締める。深く関わったあの人達にもう二度と会う事はないだろう。いや、会ってはならない人々だ。草の任務を終え、イルカは中忍、うみのイルカにまた戻る。
もう草はこりごりだなぁ…
おろしたての薄物の袖を撫で、イルカはなんだか切なかった。薄水色に網代の小紋は静が夏用にと仕立ててくれたものだ。自分はすべてをあっさり割り切れる性格ではない。本当に草には向かないと思う。それはカカシも同じだろう。
『幸せ者だぁね。』
分身で作った『うみのカカシ』の遺体に向かって最後にカカシはそう言った。穏やかな声音だった。何か満たされたような響きだとイルカは思った。
おそらく、あれは自分自身に向けた言葉だ。あの時、「うみのカカシ」の人生は、はたけカカシの一部となった。ただの虚構ではなくなったのだ。顔は見えなかったが、きっとカカシは笑顔だったに違いない。心の底からあの人は自分の事を幸せ者だと思っただろうから。
そうだ、そうだったらいい。もうカカシは空っぽじゃない。
「よかった、ホントよかったよな…」
目の奥が熱い。イルカは立ち止まると、両の拳で目を覆った。涙が溢れてくる。
「よかった…」
カカシは木の葉の上忍、はたけカカシという人間として、しっかりと自分の人生を歩くだろう。そして誰かを愛し、うみのカカシがそうだったように、その人を愛し尽くすだろう。フラフラしているようにみえて、あの人はそういう質の人だ。
「よかっ…」
嗚咽がこみ上げてくる。そんなカカシをイルカは愛した。だけどカカシにとってイルカは所詮、ただの部下だ。情の深い人だから、里で会ったらきっと声をかけてくれる。冗談口を叩いてくるかもしれない。それでもイルカは、任務をともにした部下であり、同胞の一人にすぎないのだ。
「笑うから…」
嗚咽まじりにイルカは呟く。
「アンタに会ったら、オレ、笑顔でいるから…」
己に言い聞かせるようにイルカは繰り返す。
アンタの笑顔を欠片も曇らせることがないよう、必ずオレは笑うから。
道ばたの木の根もとにイルカはずるずると座り込んだ。流れる涙を拭う事なく、イルカは梢を振り仰ぐ。
だから今は、泣かせといてくれよ、なぁ…なぁ、カカシさん…
「カカシさん…」
ちらちらと揺れる木の葉の向こうは真っ青な夏空だ。蝉時雨が降ってくる。
「カカシさん、カカシさん、カカシさ…」
愛しい男の名前を呼び、イルカはただ涙を零した。イルカの嗚咽を蝉時雨が包み込む。
この時イルカはまだ知らない。峠道のてっぺんに太鼓持ちの玉丞がいること、そして木の葉の里で己を待つものを。運命の歯車はすでに大きく回り始めていた。
浮き世の夢 終
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