出世の花道 2
「おはよう、ハニー。今から辞表出しにいくの?」
「うるせぇっ、っつか、アンタどっから湧いて出たっ。」
「やだなぁ、また明日って言ったじゃない。」
「オレは聞いてねぇっ。」
昨日の悪夢は現実だった。今、銀髪男はイルカと同じ電車に乗り、同じ駅でおりて一緒に歩いている。
「ついてくんな。」
「ついていってるわけじゃないのよ。たまたまイルカと方向が一緒なだけ。」
「だったら離れろ。メーワクなんだよっ。」
イタリアブランドかどこぞのオーダーメイドか、一見して仕立てがいいとわかるスーツを自然に着こなした銀髪男はやたらとイイ男で、それだけで道行く人々の注目を集めた。それが二着いくらの吊るしを来た平凡なサラリーマンと連れ立っているのだからますます目立つ。イルカとしてはいたたまれない。こういう高級品を着た男というのは普通、真っ黒いリムジンかなんかで出勤するもんじゃないのか、そう思って横を歩く男を睨むと、あろうことか銀髪男は人差し指でつん、とイルカのおでこをつついてきた。
「もう、ハニーってば照れ屋さん。」
ざわ、と道行く人々の気配が揺れた。
「バッバカヤローーッ。」
たまらずイルカは走り出す。あ、ハニー、と呼ぶ声が背中に聞こえたがかまってられない。
やってられっかーーーーっ。
全力疾走でイルカは会社のロビーに駆け込んだ。ぜいはぁ、と息をはずませていると、後ろからポン、と肩を叩かれた。
「うわっ。」
銀髪男が追いかけてきたのかとイルカは飛び上がる。
「どうしたんです。イルカさん。」
「なっなんだ、テンゾウさんか。」
それは同じシステム部のテンゾウだった。イルカはホッと胸を撫で下ろす。
「いや、何でもない。ちょっとびっくりしただけで。」
テンゾウは今年になって転属してきた男だ。黒目の大きな長身のこの男は一見取っ付きが悪いがなかなか気さくで、同世代のイルカとはどこかウマがあった。仕事の後連れ立って居酒屋に繰り出すことも度々だ。
「ちょっとって感じでもなかったですよ。それよりイルカさん、おととい部長殴ったって本当なんですか。」
テンゾウは声を潜めた。
「今日処分が決定するって皆が噂していて、っていうより、そう息巻いてるのは部長本人なんですけどね。オレ、びっくりしてイルカさん探しにきたとこですよ。」
どこまでも卑劣な男だ、イルカは腹の底から怒りがわいた。
「あぁ、本当だよ。オレは今日限りで会社辞めるつもりだ。」
「えぇっ。」
吹き抜けのロビーをスタスタと早足で横切るイルカの後をテンゾウが慌てて追いかけてきた。
「辞めるって、イルカさん。」
「くっそ、どうせ辞めるんだし、もう一発殴っとくか。」
エレベーターを待ちながらイルカはバキバキと拳を鳴らす。出勤してきた周囲の人々がぎょっとイルカの顔をみた。
「イイイイルカさん、落ち着いて。まずは話聞かせてくださいよ。」
「部長どこにいた。とりあえずシステム顔出して机整理するわ。」
「イルカさ〜〜ん。」
システム部のある五階で降りると、イルカは鼻息荒く廊下を進んだ。
「ホント気が荒いんだから…あ、待ってくださいよ、イルカさ〜〜ん。」
テンゾウが心配そうにくっついてくる。その時後ろから声がかけられた。
「あ、海野君。」
同じシステム部の係長だ。
「最上階の会議室にすぐ行ってくれ。社長がお呼びだ。」
「えぇぇっ、しゃしゃ社長がっ。ニューヨークからいつお戻りに…」
青くなって狼狽えたのは何故かテンゾウの方だ。イルカはすでに腹をくくっていた。同時に心底怒りがこみあげてくる。どこまでも汚い奴らだ。社長に直訴されないよう先に手を回したつもりなのだろう。証拠を取り上げてもまだ安心できないらしい。
「所詮、小悪党なんだよ。」
ふん、と鼻で笑ったイルカはエレベーターの方へ踵を返す。しかし、こういう卑怯な連中こそが最も毒をまき散らすのだ。
「じゃあ、後でな。テンゾウさん。」
後ろ手で挨拶すると、イルカは最上階の会議室へ向かった。
この会社の社長はまだ若い。創業一族の直系である、はたけサクモ前社長の一人息子だ。去年の春、突然サクモ社長が退きその後を継いだ。天才の呼び声高い人物で、十代の頃から会社経営にも携わり実績をあげてきたらしい。全会一致で承認されたが、まだ二十代半ばの若社長誕生に反発する勢力もあるのだという。母親がイギリスの伯爵令嬢で向こう育ちなのだと女の子達が騒いでいた。
「オックスフォードかケンブリッジか知らねーが、もうオレにゃ関係ねぇ。」
毅然と頭をあげたイルカは最上階の会議室ドアを勢いよく開けた。入り口近くにはすでに痩せた小男のシステム部長が立っていた。隣にいる太った大男が航空事業部長だ。正面の机の向こうに若社長は座っている。だが椅子は流線型の背をこちらに向けていて、顔が見えない。社長は大きな一枚ガラスの窓から外を眺めているようだ。机は社長のところから楕円形にドアの方へ延びている。大蛇丸夫常務は悠然と上座に陣取っていた。長い黒髪を後ろで一つくくりにした大蛇常務のスーツの袖口からはルビーをあしらったカフスとゴールドのチェーンがのぞいている。
オカマ常務め、内心イルカは毒づいた。その向かいに座るのは自来也専務だ。その他、会社のお歴々方がずらりと顔を揃えていた。イルカは苦々しい思いで大蛇常務を睨んだ。フと目があい、大蛇常務はにぃっと笑みを浮かべる。それからおもむろに社長へ声をかけた。
「これは何の騒ぎなの、カカシ君。」
「社長だ、大蛇常務。」
自来也専務が唸った。同族同士で遠慮がないらしい。くす、と大蛇常務は肩をすくめた。
「だって、たかが平社員が上司を殴っただけなのに、アタシ達まで引っ張りだされるなんて、ねぇ、若社長。」
「殴った件じゃありませんよ、大蛇おじさん。」
張りのある声が響いた。社長だ。
「ま、最終的には殴ったシーンも出てきますけどね。」
窓の方をむいたままひょいと何か小さなものを椅子の背ごしに振って見せた。
「ずっと内偵いれてたんだけど、やっと掴みましたよ。証拠のファイルの数々、よくもまぁ、ここまでやりましたねぇ、おじさん。」
「なっ…」
大蛇丸夫の顔色がサッと変わる。
「何のこと…」
「しらばっくれても無駄です。ファイルのコピーは警察にも渡してあるし、今頃家宅捜索入ってるんじゃない?会社への背任だけじゃなくて、色々罪状つきますよ〜。」
口調は呑気だが響きは冷たい。
「ただ今回ねぇ、小物のあぶり出しに手間取っちゃって。こういう輩を見逃すと後々またやらかすからね。テンゾウ。」
え?
イルカは一瞬、耳を疑った。今、社長はテンゾウの名を呼んだか?
「はい。」
だが、イルカの斜め後ろから聞き覚えのある声がする。振り向くといつの間に入ってきていたのか、確かに同僚のテンゾウだ。
「一応見てもらいましょ。海野さんもその方がいいでしょ。」
会議室のモニター画面が明るくなった。そこにはイルカとシステム部長のやりとりが映し出されている。何度かシーンが切り替わり、イルカの怒鳴り声と部長が殴られる映像を最後に画面は再び暗くなった。イルカはぽかんとしたまま周囲を見渡した。システム部長と航空事業部長が真っ青になって震えている。
「下でね、警察の方々をお待たせしてるから、逃げようなんて考えないことだぁよ。自来也おじさん、後お願いできますか?」
「おぉ、まかしておけ。」
自来也専務は巨体を揺らし、大蛇常務ら三人を引っ立てるように部屋を出て行った。ぞろぞろと他の役員達も席を立つ。驚いたり怯えのまじった視線を向けたりと様々だ。あっという間の出来事で、イルカはぼうっとその場に突っ立っていた。
「あなたを利用して申し訳ない。この際、社内の大掃除をしようと思ってあちこちから内偵の手を入れていたんですよ。仕上げにこのテンゾウを送り込んでリストは出来上がったんだけど、どうしても証拠が欲しくてね。嫌な思いをさせてしまいました。」
社長直々に声をかけられ、イルカはハッと居住まいを正した。
「いっいえっ、オレ…私でお役にたてたのでしたら…」
もごもごと答えると、テンゾウが隣に立ち頭を下げた。
「本当に申し訳ありません。正義感の強いあなたを利用するような真似をして。」
「あっいやっ…」
詫びるテンゾウにイルカはただ狼狽える。事情がまだはっきりと飲み込めない。社長が穏やかに話を続けた。
「テンゾウは私の直属の部下でね、誰か正義感の強い直情型の人間にファイルの存在を気付かせろって私が命じました。だから咎は私にある。しかし、あなたは本当によくやってくれた。隠しカメラにマイク、ちゃんと外しましたからこれからは安心して。」
イルカの立ち回るところにすべて仕掛けたのだと言う。イルカはぞっとした。もし自分が道を誤っていたらと思うと震えがくる。
「あなたは信頼のおける人物ですね。しかも仕事もできる。これからはテンゾウともども、私の直属の部下として働いてもらいたい。」
「えっ。」
イルカは目を見開いた。社長室つきの部下、平社員の自分がいきなりのエリートコースに乗るというのか。
「経験を積んでもらって、いずれは私の片腕として重要な部署をまかせたいと思っています。」
マジ、出世コース?
イルカの頭の中で祝福の鐘が鳴った。ということはじいちゃんにも楽させてあげられるし、ナルトの学資の心配もない。自分も嫁さんを貰って一家をなすことができる。ついさっきまで再就職をどうするかとか将来金銭的にやっていけるのかとか不安になっていたのが嘘みたいだ。
「あっあのっ、社長、ありがとうございますっ。」
がばっとイルカは頭を下げた。
「誠心誠意、がんばる所存ですっ。」
「ん〜、オレもねぇ、信頼できる人間確保しないと結構大変なのよ〜。それで色々人材集めてんだけど、アンタは信用できるし仕事できるし可愛いし。」
「はっ、ありがとうご…」
いきなり口調がくだけた。しかもなんだか場違いな言葉が混じっていなかったか。
「人材集めてて嫁さん見つけられるなんて男冥利につきるじゃない。オレもまさか男に惚れるとは思ってなかったけど、アンタくらい可愛かったらありだよねぇ。」
なんだか聞いた事のあるこの声、この口調。たら、と嫌な汗が背中をつたった。全神経が警報を鳴らしている。
「今夜はオレのマンションでいいよね。明日から新居探そっか。あ、その前に猿飛のおじいさまへご挨拶いこ。」
イルカはバッと勢いよく体を起こした。
「アッアンターーーーーッ」
若社長が座っているはずの椅子の上にあの極悪変態銀髪男がいる。
「しゃしゃしゃ社長ってっ」
「ハイ、ハニー。」
机に片肘ついた銀髪男はニヤリ、と口角を吊り上げた。
「せっかく同伴出勤って思ったのに一人で走っていっちゃうんだもん。寂しかったよ〜。」
無邪気な物言いだけにその顔に浮かぶ性悪な笑みが恐ろしい。イルカは急いで背広の内ポケットから辞表を取り出そうとした。
「辞めますっ、今すぐこの会社、辞めますっ。」
焦って中で引っかかる。あたふたしながらようやく引っ張りだした辞表をイルカは手前の机に叩きつけた。
「はい、辞表っ。」
「あ、専業主婦の方がいいならオレは大歓迎よハニー。いつも側にいたいなんて、ハニーってば結構情熱家さん。」
「違うわーーーーっ。」
相変わらず話が噛み合ない男だ。イルカは真っ赤になって怒鳴った。
「オレは転職するっつってんだよっ。なんで結婚だーーっ。」
「社長、電話が繋がりました。」
その時、テンゾウが声をかけた。そして申し訳なさそうな顔でイルカに頭を下げる。
「あの…イルカさんのおじいさまに…」
目を剥くイルカの目の前で銀髪男は電話の外部音声スイッチを入れた。部屋に猿飛の祖父の声が響き渡る。
『社長さん、この度は孫が本当にお世話になりました。ありがとうございます。』
「いえいえ、全ては海野君の手柄ですよ。彼はこの会社の救世主と言っても過言ではない。先程部下が説明申し上げましたとおり、これからは私の片腕として期待しております。あ、本人がここにおりますのでどうぞお話しください。」
銀髪男はイルカに向かってにんまりと笑う。
『イルカ、イルカか?じいちゃんじゃ。お前、ようやったが。さっき社長さんの教えっくいやって、すーぐ親戚んしに電話したとこぉ。いっきな皆集まっせぇ今かい飲んかたじゃ。』
「じっじいちゃんっ。」
イルカは真っ青になった。
親戚中が集まってこれから祝いの宴会ってこの銀髪極悪人、何をふきこみやがった。
ギッと睨むが当の銀髪は涼しい顔だ。
「いっいや、あの、じいちゃん…」
『イルカにいちゃん、すげー、手柄たてて出世したんだってーーっ。かっこいいってばよっ。』
「ナルトっ。」
今度は弟の声が響く。
「オレ、みんなに自慢しちまったもんね。サスケとかサクラちゃんとか大騒ぎでさー。あ、アスマ兄が来た。わ〜、でっけぇ鯛だーーっ。』
いとこのアスマのしゃべる声が遠くから聞こえてくる。祝いだからとか酒は女房の紅の実家が届けてくれるとか、要は退路を断たれたのだ。呆然とするイルカの前で再びにこやかに猿飛の祖父と会話をしていた銀髪男は、近々ご挨拶に伺います、と言って電話を切った。
「いい所みたいだねぇ、ハニーの出身地って。なんか、小さな集落だから皆顔見知りなんだって?明日はおじいさんのところに地元情報誌の取材がくるらしいよ。」
突っ立ったままのイルカにしゃあしゃあと言い放つ。それからゆったり立ち上がるとイルカの側まで歩み寄ってきた。思わず後ずさるイルカにフッと笑みをこぼす。そして机に置かれた辞表をひょい、ととりあげ、テンゾウに渡した。
「こ
れ、シュレッダーにかけといて。」
テンゾウがまた申し訳なさそうな顔でイルカを見た。
「すみません、イルカさん。あの、オレもこの人には逆らえないんで。」
ぽそり、と小声で謝るテンゾウの耳を銀髪の社長が引っ張り上げる。
「余計な事言わなーいの。」
「いだだだだ、痛いっす先輩〜〜。」
「社長、でしょ。」
「しゃっしゃちょ〜〜」
涙目のテンゾウにイルカは力なく笑ってみせた。テンゾウと気が合うはずだ。彼もこの極悪社長に虐げられている一人なのだから。ぼんやりしていると銀髪男に手をとられた。
「自己紹介がまだだったね、イルカさん。」
銀髪の美貌の悪魔が魅惑的に笑う。
「オレの名前ははたけカカシ、職業は社長です。」
これからずっとよろしくね。
イルカの人生設計のレールがあらぬ方向に敷かれたのだと思い知るに足る一言だった。
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