出世の花道1
第一章 海野イルカの災難
目が覚めたらケバケバしい装飾の天上が見えた。このベッドにも見覚えがない。というか…
「どうみてもラブホ…だな…」
イルカは横になったままガンガンと痛む頭を押さえた。喉もカラカラだ。そういえば夕べは随分飲んだ。記憶が飛んだのはどのあたりからだろう。肌に触れるシーツの感触で、自分が素っ裸なのはわかっている。腰のあたりのすっきり感だって十分に覚えがある。
やべぇ、オレ、避妊とかしたか…
トラブらなきゃいいけど、とイルカは恐る恐る目を横にやった。白いシーツからキラキラした銀髪がのぞいている。
うっわ〜、外人?
いやいや、今時、髪を染めてる奴なんて掃いて捨てるほどいる。すっぽりとシーツをかぶっているので顔が見えないが…
どうするオレ
嫌な汗が背中をつたった。相手を起こさないようそっと体を起こす。とたんにあらぬ所に激痛が走った。
「ふぐぉっ。」
思わず呻くと、隣に眠る銀髪がもぞもぞと動いた。
「くっ…うぅ…」
痛みに耐えてそろそろと体を動かす。何故だ、何故ケツなんかが痛いんだ。見下ろすと胸、腹、太もも、そしてきわどいところまで、赤い痕が散っている。一瞬呆然としていると、隣から呑気な声がした。
「あれぇ、早いねぇ。」
………えっ
男だ、男の声だ。ぎぎぎ、と首をまわすと、銀髪の男が片肘ついてこちらを見ていた。イルカは思わず目を見張る。白い肌に恐ろしく整った顔の男だ。しかもその両眼ときたら、右目は深い藍色、そして左目は鮮やかな緋色をしている。古い傷跡が縦に入っていて、それが端正な顔に精悍さを加えていた。ぽかん、としたままのイルカに男はニィッと口元を吊り上げた。
「夕べは激しかったからねぇ。今日は祝日で会社休みでしょ。もうちょっと寝てましょうよ。」
するり、と腰に手を伸ばしてくる。当然だが男も裸だ。
「なっなななっ」
イルカはざざっと尻で後ずさった。勢いあまってドシン、とベッドの下に転がり落ちる。
「ぐぁっ。」
激痛が腰に走った。だがかまっている場合ではない。ベッドの下でくしゃくしゃになっていたワイシャツを羽織りスーツのズボンに足を突っ込む。
「どこ行くのよハニー。」
「ううううるせぇっ。」
そのまま上着を握って部屋を逃げ出した。
最悪だ…
自分のアパートに逃げ帰ったイルカはへなへなと座り込んだ。昨日から締め切っていた六畳一間の部屋には真夏の熱気がむっと籠っている。
オレぁ夕べ、何やらかしちまったんだ…
一人でやけ酒をかっくらっていたのは覚えている。居酒屋のカウンターで浴びるほど酒を飲んで、そうだ、クラクラした頭で焼酎を追加したときだ、隣にいた男に話しかけられた。
『荒れた酒だねぇ。なんかあった?』
つっと頬を撫でる感触。
『一人で抱え込むのはだめだーよ。』
顔を上げるとなんだか銀色がキラキラしていて、それがどうしたのなんて聞いてくるから、なんだかあれこれぶちまけたような気が…
「んで、何で男に掘られてんだよオレってやつぁ〜。」
あらぬところの痛みといい、走った時にどろり、と太ももをつたったものといい、イタしてしまったことは間違いない。
「忘れよ…」
のろのろと立ち上がり、イルカはシャワーを浴びようと風呂へ向かった。
海野イルカは26歳、東京に本社をおく商社勤めのごくごく平凡なサラリーマンだ。九州に祖父と年の離れた弟が一人いる。両親は高校三年の時に事故で亡くなっていた。
奨学金で大学を卒業したイルカはそのまま都内で就職した。地元では就職できる企業が少ないうえ、まだ幼い弟のために学費を稼がなければならないからだ。幸い、給与条件のいい会社に就職でき、現在入社四年目だ。実家への仕送り以外に、かなりの金額を貯金にまわせる余裕もでてきた。もともと質素に暮らすのが苦にならない質だ。これだったら弟の学資を稼ぎつつ家庭も持てるかな、と将来設計をはじめたところだ。
「その将来設計もパァか…」
エアコンをつけ、ザッと湯を浴びたイルカは、力なくベッドに腰掛けた。壁にもたれぼんやりとペットボトルの水を呷る。実は昨日、イルカは上司を殴ったのだ。
一月ほど前、システム部のイルカは、ひょんなことから不審な二重ファイルを見つけた。それは航空事業部のもので、ファイルにはヘリコプター輸入と納品における詳細が記されていた。
航空事業部というのは出世コースの出発点とも言われている花形部署で、扱う金額も桁違いだ。その記録によると、ドクター・ヘリ導入に際して多額の不明金授受が発生しており、深く関わっているのが航空事業部長と前社長の従兄弟である大蛇丸夫常務だった。
丁度、仕入れ先のメーカーが急に変更になり社内で話題になった時期と一致している。イルカはそのファイルをUSBメモリーにコピーし、システム部の部長に相談した。きちんと上にあげて監査するから他言無用と言われ、USBメモリーを預けたのに。
アイツもグルだったなんて…
思い出しても腹が立つ。ファイルの存在自体がいつの間にか揉み消されていた。気付いたイルカがシステム部長を問いつめると、完全にシラを切られた。今更ながらに己のバカさ加減を思い知る。あの二重ファイルはシステム部長が一枚噛んでいたからこそ存在できたのだ。おそらくイルカが知らないだけで、抱き込まれている同僚も何人かいるのだろう。そうでもしないと内部監査の目を誤摩化すことはできない。
「くっそぉっ。」
イルカはゴロン、とベッドに転がった。システム部長のニヤニヤ笑いがちらつく。
『利口に生きることだよ、海野君。』
神経質そうな薄い唇をつり上げ部長は言った。
『このご時世、転職もなかなか大変だからねぇ。』
痩せた小男の部長を思わず殴り飛ばしていた。
「辞めてやる、くそっ。」
自分はまだ若い。ここまで条件はよくなくても、弟のナルトを進学させる金くらいは稼げる筈だ。
「嫁さんは後回しだな…」
はぁぁ、とため息をついた時、部屋のチャイムが鳴った。イルカは顔をしかめる。昨日の今日で誰にも会いたくない。しかも夕べは見知らぬ男に掘られてしまったというのに。
またチャイムが鳴った。無視を決め込んだイルカはごろり、と寝返りを打つ。と、ドアの外から声がした。
「海野さーん、宅急便です〜。」
イルカはしぶしぶ起き上がった。無造作にドアを開ける。
「サインでいいで…」
「ハ〜イ、ハニー。」
ガン、とイルカはドアを閉めた。閉めたつもりが、足で止められている。
「あっぶないじゃないの〜。」
ドアの隙間から銀髪の男が顔をのぞかせにんまり笑った。
「うわーうわーうわーうわーっ。」
なんで、どうしてあの男がここにいる。イルカは必死でドアノブを引っ張った。だが向こうからもノブを引かれドアはびくとも動かない。
「うわーーーっ。」
「ほらほら、ドア、壊れちゃうよ〜。弁償するお金とかだーいじょうぶ?」
「げっ。」
弁償といわれて一瞬、イルカの力が弛んだ。そこにすかさず力を込められ、あっさりドアを開かれる。ずざざっ、とイルカは数歩後ずさった。
「アアアアンタっ、何でここがっ。はっ、まさかオレの後をつけてきたのかこの変態っ。」
「うわひどっ。ホテル代も払わずドロンした人の言う事?そーゆーのヤリ逃げっていうんだっけ?」
「ヤッたのはアンタの方だろうが、この強姦魔っ。」
思わず怒鳴ったイルカは慌てて口を押さえた。ボロではあるが駅から近く家賃の安いアパートである。全室埋まっており、当然この時間、住人は部屋にいるだろう。休日の朝っぱらから叫ぶようなことではない。腹の底から沸き上がる怒りをぐっと押さえ、イルカは努めて冷静さを保とうとした。
「とにかく、お金はお払いしますから、帰ってください。」
「やだなぁハニー、じょーだんに決まってるじゃない。一度男が契りを交わしたからには心も一つ財布も一つ。」
「契りとか言うなーーーーっ。」
冷静さがたもたれたのは約三十秒、イルカは真っ赤になって怒鳴りつけていた。
「銭持って消えやがれこのクソ野郎っ。二度とオレの前に現れんなっ。」
「あれぇ、そーんなこと言っていーのっかな〜。」
銀髪男はにっこり笑って人差し指と中指に挟んだものをピッと顔の前で振った。
「せ〜っかく届けてあげたのに、ふ〜ん、いらないんだ〜。」
示されたのはイルカの運転免許証だ。
「あーーーっ。」
手を伸ばすがひょい、とかわされる。
「こっこのっ…」
「詰めが甘いよ。」
端正な顔がフッと正面にきた。耳元で囁かれる。
「ねぇ、海野イルカさん。」
「こんのぉっ。」
もともと気が短い方だ。フルネームで呼ばれてイルカはキレた。
「ぶっ殺すっ。」
「お〜っと、危ない危ない。」
イルカ渾身の一撃を軽くいなした男は両手を上げて降参のポーズをとった。その余裕が憎たらしい。
「返しやがれっ。」
「財布の中身はちゃんと確認してから帰りましょうねぇ。」
「かっ勝手に抜き取ったくせにこのっ。」
「そ、相手がオレだったからいいようなものの、もし悪者だったら大変よ〜。」
「貴様が言うかーーーっ。」
再び殴り掛かったイルカの手を取ると銀髪男はコツン、とおでこ同士をくっつけた。
「ハニーってば、危なっかしくって一人で置いておけません。」
「うぎゃぁっ。」
イルカは数歩飛び退った。銀髪男はニコニコしている。
「ま、これで本籍地もわかったし。」
「なっ…」
本籍ってこの男、何をする気だ。サッと血の気が引いた。
「猿飛の実家におじいさんとナルト、だっけ?まだ小学六年生なんだよね、弟さん。」
にぃ、と銀髪男の口角がつり上がる。イルカはゾッとした。ただの変態だと思っていたが、もしかしたらヤクザかなにか、ヤバい男なのだろうか。そういえばやたらと高級そうなスーツを着ている。
「なっなんでナルトの名前を…」
「え、夕べアンタが教えてくれたんでしょ。」
きょとん、としてみせるところがわざとらしい。イルカは思わず両拳を固めて叫んだ。
「きっ貴様っ、じいちゃんとナルトに何かしやがったらっ…」
「早くオレ達の結婚のご挨拶にうかがわなきゃいけないもんね。オレもナルト君の義理の兄になるわけだし。」
「ただじゃおかねぇ…って、は?」
「おじいさまからお許しがでたら、すぐに引っ越しましょうね。あ、新居はもちろんハニーの好みを最優先にしてあげる。オレってほら、愛妻家だから。」
「………へ?」
ワケのわからない単語が飛び交っている。イルカはぽかり、と口を開けた。銀髪男は調子づいてぺらぺらしゃべり続ける。
「会社のお偉いさんの不正を知ったアンタ、はめられちゃったんだって?証拠のUSBメモリーまで取られて、口封じにザンビアかニカラグアの名前も知らないような街に追いやられちゃうんでしょ?」
「はぁ?」
「消されるくらいならこんな会社、辞めてやるって。でもナルト君の学資だけは兄ちゃん、絶対稼いでやるからなって。」
オレはこの男に何しゃべったんだっ。
今更ながらイルカは夕べの己自身を呪った。銀髪男は上機嫌だ。
「アンタがあんまり悲嘆にくれるもんだから、じゃあ、オレは結構金持ちだから、嫁に来ますかっていったら。」
銀髪男は満面の笑みでトドメを刺した。
「アンタ、是非嫁にしてくださいって。」
「はいーーーっ?」
目をむくイルカを銀髪男はガシリ、と抱きしめた。
「これはもう、運命の出会いだよねぇ。」
固まったままのイルカの頬に男はちゅっとキスを落とした。
「幸せになろうね、可愛い人。オレ達、体の相性もバッチリだったし。」
それから体を離すとはい、と免許証をイルカの手に握らせた。
「オレも色々準備があるんで、今日は帰りますね。あ、寂しがらないでハニー。せっかくの休日、一緒にいてあげられないけど、これからはずっと側にいるから。」
今度は唇にちゅっとキスをしてくる。
「じゃ、また明日ね。」
銀髪男はヒラヒラ手を振ってさよならをすると、ドアの向こうに消えた。
「なっ…」
ガチャン、とドアの閉まる音が響く。
「なんだってんだあのヤローーーっ。」
へなへなとその場に座り込んだイルカはしばらく動く事が出来なかった。
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