ぴゃ〜ぴゃ〜ぴゃ〜
森の中、妙な声にイルカは足を止めた。
ぴゃ〜ぴゃ〜
イルカはBランク任務を終え、里へ帰還する途中である。
敵か…?
辺りの気を探り、注意深くイルカは声のする方へ足を進めた。まだ太陽が中天に輝く時刻で、森の中は明るい。
ぴゃ〜ぁぁぁ〜
木々の茂った葉の間をすり抜け、イルカは声のする真上に立って覗き込んだ。
「……猫?」
真夏のむっとする草いきれの中、小さな窪みにはまった子猫が鳴いている。体の大きさは二十センチくらいで、生後二週間というところか。
「うわ、不格好だなぁ、お前。」
呆れたようにイルカは呟いた。子猫は、灰色と黒、白と茶が微妙に入り交じった毛色で、まるでボロ雑巾だ。
「ぴぃぃぃぃっ。」
子猫はまるでイルカの悪口がわかったかのように、上を向いて甲高く鳴いた。それからカリカリと窪みから出ようと爪をたてては、ころん、と転がり落ちる。その恰好にイルカはぷっと吹きだした。
「なーんだ、出られないのか。」
一応辺りの気を探るが、術や罠の気配はない。イルカは手を伸ばして、ひょい、と子猫をつまみ上げた。
「雑巾みてぇ。」
「ぴにゃ〜〜〜っ。」
首筋をつまんで目の前にかかげると、子猫はじたばたと暴れた。イルカは笑って草むらに置いてやる。だだっと子猫は全力で走り出し、あっというまに姿を消した。
「もうはまるなよーっ。」
子猫の消えた草むらにイルカは声をかけると、踵を返した。
「あ〜、帰ったら即ビールだ。」
里を目指してイルカは跳躍した。
「くっは〜、うめぇ。」
タン、と缶ビールを卓袱台に置く。イルカはパンツ一丁だ。シャワーを浴びて任務の汚れを落としさっぱりした。こうやって無事に任務を終えた身に、冷えたビールはなによりの報酬だ。
「いや、オレも安上がりな男だよ、うん。」
つまみの枝豆を口に放りこみつつ、イルカは満足そうに一人頷いた。太陽は沈んだばかりで、真っ赤な夕焼けがイルカの部屋にも金色の光を投げかけている。一本目のビールを飲み干すと、イルカは冷蔵庫から二本目をとってきた。
「さって、任務達成ご苦労様、イルカ君、ご褒美です。」
プシッと二本目のプルタブを開け、ぐぐーっと呷る。
「ぷはっ。」
イルカは息を吐いた。
「至福〜。」
「んっとにあにさん、安上がりでやんすねぇ。」
突然の声にイルカはぎょっとした。見ると、窓の所に小さな子猫が一匹、ちんまりと座っている。黒と灰色と茶と白が微妙に入り交じった毛色の子猫は、体長は二十センチほどだろうか、片手に収まる程小さい。体の半分くらいあるしっぽがぴょこり、ぴょこりと揺れていた。
今の声はこの猫…か?
イルカはあんぐりと口を開けたまま子猫を見つめた。
まだおっぱいを飲んでよちよちしている時期の子猫だ。赤ん坊猫特有の、大きくて丸い目がじっとイルカを見つめている。
いや、だが、えらくスレた物言いだったような…
イルカとて中忍、人語を操る妖獣や尾獣のたぐいは割と身近だ。いまさら子猫がしゃべったからと驚きもしないが、それにしても目の前の子猫、さっきのしゃべり口と姿のギャップが大きい。マジマジと見つめていると、子猫はぴょん、と窓から畳に降り立った。
「ビールで満足しててもいいっちゃいいんですけどねぇ。あにさん、まだ若いんでやんしょ、こう、もっと生活にメリハリっていうか、理想っていうか、ないんですかい?」
やっぱしゃべったのはコイツかっ。
子猫は、イルカの前に、ちょこり、と座った。
「まぁ、個人の自由ってヤツでござんしょから、あっしがとやかく言うことじゃござんせんや。」
小さいくせによく回る口である。それから子猫は、ぺこり、と頭を下げた。
「あっしは千手院是清と申しやす。先程は助けていただき、ありがとうござんした。」
「……え?」
「や、ですからね、あにさん、今日の昼、あっしをお助けくだすったでやんしょ。」
くるくるした目がイルカを見上げる。
昼、昼頃森の中で…
「あーーっ、」
思わずイルカは指さした。
「お前、あの時の穴に落ちてた猫っ。」
「なんです?あにさん、気づいてなかったんですかい?」
やれやれ、といった風に子猫はぺろり、と前足を舐めた。
「まぁねぇ、あっしがしばらく座っていても、声かけるまで気づきゃしねぇし。」
小さなしっぽを呆れた風にパタパタさせる。
「なんです?忍っつってもあにさん、呑気でやんすねぇ。木の葉の忍ってな精鋭ぞろいと聞きやしたが、ま、噂は噂っってことでやんすか。にしたってもそぉっとあにさんも…」
「……おいっ。」
イルカはぴよ〜っと子猫の首筋をつまみ上げた。
「お前、喧嘩売りにきたのか…」
「あれあれ、あにさん。」
つまみあげられた子猫は足とシッポをぱたぱたさせる。
「短気は損気でやんすよ。あっしはご恩返しに参上した次第で。」
「恩返しだぁ?」
イルカは目をぱちくりさせた。子猫は宙ぶらりんのまま、こくこくと頷く。
「この千手院是清、まだまだ未熟とはいえ化け猫の端くれでやんす。受けた御恩はきっちり返す、それがあっしら化け猫の仁義でして。」
「ばっ化け猫〜?どっかの忍猫じゃなかったのかっ。」
イルカはぽかん、と目の前の子猫をみた。灰色と黒と白と茶が入り交じった毛色の子猫は、どこをどうとっても化け猫などと大層なものには見えない。だが、子猫はイルカの言葉にムッときたらしく、髭をひくひくさせた。
「あんなちんけな妖獣どもと一緒にされちゃあ困りやすぜ、あにさん。」
宙ぶらりんのまま、子猫は胸を張る。
「あっしら化け猫は格が違いやす、格が。」
なんの格だよ、っつか、その恰好で格とか言うか…
イルカは生温く子猫を見る。沈黙をどう受け取ったのか、子猫はくりくりした目を尊大に細めた。
「ま、あにさん、あっしも狭量な猫じゃござんせんから、そう恐縮せんでも大丈夫でやんすよ。」
「してねぇよ。」
イルカの声は思わず低くなる。
「んで、化け猫様が、あんな小さな穴から出られず鳴いてたってわけだ。」
ふん、と鼻で笑ってやると、子猫はちっちっち、と前足を振った。
「あにさ〜ん、方位陣に気づいてなかったんですかい?まぁ、あっしらを仇と狙うどこぞの陰明師の仕業でやんしょうが、例の穴、あの周りに張ってあったじゃありぁせんか。いやはや、木の葉の里は平和でやんすねぇ。」
「おいっ…」
つまみ上げた子猫に顔を近づけじろっと睨んだ。
「お前な、恩返しにきたのか、喧嘩売りにきたのか、どっちだ。」
「恩返しに決まってやす。」
子猫はしっぽをパタパタさせた。イルカははぁ、っとため息をつき、子猫を畳みに下ろす。なんだか妙なことになってきた。こっちは任務を終えたばかりで疲れているのだ。その上明日もアカデミーがある。こんな変なものにはとっとと帰ってもらいたい。だが、子猫はちょん、と座って頭を上げた。
「ささ、あにさん、なんでも望みは叶えてさしあげやすぜ。なんなりとおっしゃっておくんなさい。」
「あ〜。」
イルカは唸った。関わりたくない。なんとか穏便に追い返そう。
「いいわオレ、別に恩返しがして欲しくて助けたんじゃねぇし、気持ちだけ受けとっとくわ。」
ありがとな、とイルカが手を振って追い払おうとすると、子猫は慌てた風で立ち上がった。
「そっそうはいきやせん。」
さっきまでのクソ生意気な態度は影を潜め、イルカの膝の周りをおろおろと動き回る。
「恩も返さず帰ってきたとあっちゃ、御代様に怒られやす。」
子猫の焦りようにイルカは首を捻った。
「なんだ、その御代様ってのは。」
「あっしら化け猫の一番お偉い御方でやんすよ。」
子猫のしっぽが瓶洗いのたわしのように膨らんでいる。どうやら御代様に怒られるというのは相当恐いらしい。子猫は声を潜めた。
「どのくらい生きておられるのか、三千年とも四千年とも言われておりやすが、しかと知っておる者はおりやせん。」
「よっ四千年っ?」
イルカは呆気にとられた。妖獣のたぐいが長命なのはしっているが、千年単位など聞いたことがない。
「ちなみに、お前、いくつだ。」
「あっしゃぁまだ化け猫に成り立てでやんして、たかだか二百年の子猫でやんすよ。」 |