大きな街の賑やかな通りや広場には気軽なカフェが軒を並べる。それらの壁はガラス張りだったり大きな窓があったりで、道行く人々の姿がよく見えた。
晴れた日には表にテーブルと椅子が並ぶ。カカシはそこで街を、人々を眺めるのが好きだった。たいていは木の葉の隣街の一番大きなカフェに行く。素顔に私服姿なのでかえって誰からも気付かれない。任務帰りにも余裕があれば通りすがりのカフェに座って道行く人々を眺めた。
カフェの席からはそこに住む人々の暮らしが見えた。笑っていたり不機嫌だったり、順調な者もいれば不運な者もいる。豊かな者、貧しい者、たまに揉め事も見かける。けして綺麗な事ばかりではない人々の営みだが、それも平和だからこその風景だ。
戦争中はこうじゃなかった。漂う空気はいつも重苦しく、軍人が幅を利かせ市井の人々は疑心暗鬼で互いの足を引っ張り合っていた。戦争の惨さは戦場だけの話ではない。目前に死はなくても日常はいびつに歪み押しつぶされる。人間の醜さが嫌と言う程露呈する。
日常の些事にまといつくエゴと悪意を見るのがカカシは嫌だった。戦争はそこかしこに転がる小さな悪意を肥大させる。
大戦中に目にした街の人々の姿が蘇り、カカシは軽く頭を振った。カカシは今、隣街のカフェにいる。今日は天気がいいので戸外の席でのんびりしていた。
市場へ続く大通りぞいにあるこのカフェは、ケヤキ並木の見事な広い歩道に常時、白いテーブルと椅子を並べている。十席ほどある戸外のテーブル席の一番右端、大通りに向かう遊歩道の傍らの席がカカシのお気に入りだ。そこからだと市場へ向かう人々だけでなく、のんびり散歩する家族連れや遊歩道の先にある公園まで眺めることができる。
カカシはカプチーノの大振りなカップを両手で持った。じんわりと指先に温かさがしみる。ふわりと香るシナモンとオレンジにほっと息をつき、芽吹き始めた木々を見上げた。
カカシは暗殺任務を終わらせてきたばかりだ。火の国有力大名のお家騒動で、母親も子供も側近も皆殺しにせよとの任務だった。権力争いを繰り広げた大人はまだしも、幼い子供達に罪はない。だが、カカシはためらわず任務を遂行した。罪科があるから人が死ぬわけではない。この世は理不尽で覆われている。再び戦火が燃え広がるよりよっぽどマシだ。
ただ、子供達は恐怖を感じる間がないよう、一番先に一瞬で殺した。幼い子供の首が転がる現場は凄惨だが、それは生きている他者にとってであって、死んだ本人達は関係ない。転がり落ちた首は笑顔のままだったから、きっと楽しい気分のまま逝けただろう。カカシは素直によかったと思った。
ガラガラと石畳を走る荷車の音と怒鳴り声にカカシはふっと我に帰った。通りに目をやるとダイコンの束を抱えた荷車の親父と通行人がなにやらもめている。くすり、と笑みをこぼしてカカシは温かい飲み物を口に含んだ。こうやって雑多な感情が入り交じり繰り返される日常こそが愛おしい。どれほど血塗れようが、それで戦にならないのならばかまわない。街の喧噪を眺めながらカカシはしみじみ平和であることを噛み締めた。
その忍をカカシが見かけるようになったのはいつからだろう。五月の気持ちのいい風が吹く季節だったろうか。
十六、七の、黒髪を頭のてっぺんで一括りにした忍びが、ケヤキの陰からじっとカフェを眺めていた。ベストを着ているから中忍か。くるくるとした大きな黒い目にどこか幼さが残っている。新米なのかもしれない。鼻の上を一文字に横切る傷があるが強面には見えない。かえって愛嬌になっているのは彼の持つ雰囲気のせいか。
あちこち薄汚れていかにも任務帰りといった風体のまま、黒髪の忍びはただカフェを眺めていた。そう、何をするでもなく眺めるだけ。カフェを探るとか誰かを見張るというわけではなさそうだから、気配を消しているのは忍びの習性なのだろう。一般人は彼に気がつくまい。黒髪の忍びは木の陰からしばらくカフェをじっと眺め、そして満足げな、どこか安堵したような笑みを浮かべてから姿を消す。
怪訝に思ったカカシが注意していると、結構な頻度で彼をみかけた。カカシとてカフェに入り浸っているわけではない。暗部の任務は忙しい。そのカカシが月に一、二度見かけるということは、もしかして彼は任務帰りに必ずこのカフェに立ち寄っているのだろうか。しかもただ眺めるためだけに。
変な奴。
まぁ人それぞれだとカカシは放っておく事にした。
ケヤキの木々が黄色く色づき始める頃、一ヶ月の任務を終えカカシは久しぶりにカフェでくつろいでいた。暑くも寒くもないこの季節、戸外のテーブルは満席だ。
お気に入りのカプチーノをたのみ、読みかけの本を開く。カカシは結構な読書家だ。イチャイチャシリーズはもちろん肌身離さず持ち歩く愛読書だが、それ以外にも読みたい本はたくさんある。ただ、忍服姿の時はイチャイチャシリーズのカバーにかけかえておく。写輪眼のカカシが文学書なぞ読んでいようものなら、様々な意味で周囲が騒がしくなるからだ。
運ばれてきたカプチーノの柔らかいミルクの泡を楽しみながらページを繰っているとふと視線を感じた。さりげなく目をやった先にいたのはあの若い黒髪の忍びだ。任務帰りなのだろう、草臥れた格好をしている。いつもの大きなケヤキの陰にひっそりと佇んでいた。
ただ今までと違い、彼の視線は明らかにカカシに向けられている。木の葉の額当てをしているからお仲間だが、暗部であるカカシを見知っているわけではあるまい。カフェの様子を眺めていただけだった彼が珍しいことだ。
ま、素顔のオレはモテるからねぇ…
他人に言わせるとカカシはかなりの美形なのだそうだ。黒髪の若い忍はしばらくカフェとカカシを眺めていたが、やはりいつもの穏やかな笑みを浮かべるとその場を去った。
何事もなく日々は過ぎる。暗部の任務をこなしてはカフェでくつろぐ生活はかわらない。時折かち合う黒髪の忍びは相変わらずカフェを眺めては穏やかに微笑んだ。彼がカカシを意識しているのもわかったが、その視線はけして不躾ではなく控えめだ。彼に意識されていることを満更でもなく思っている自分に気付いてカカシはいささか妙な気分だった。
風の冷たい日だった。すっかり葉を落とした木々の枝が曇り空に寒々と突き出している。ふわりとした白いセーターにモスグリーンのジャケットを羽織ったカカシはカフェに向かって足早に大通りを横切った。足下でかさかさと黄色い葉っぱが音をたてる。さすがに戸外の席に座る者は見当たらない。窓際の席は全部埋まってしまったようで、外の席にしようか他のカフェに行くかカカシは迷った。混み合った店内ではどうも落ち着かない。ふとケヤキ並木に目をやると、例の忍びが佇んでいた。任務帰りの姿はいつものことだが、今日はまた一段とボロボロだ。寒空の下、閑散としたカフェの庭をじっと眺めている。
「ねぇ、そこの若い忍者さん。」
気がついたら声をかけていた。
「よかったらオレとそこでお茶しない?」
うわ〜、オレって最悪。
あまりにベタな誘い文句を口走った自分にドン引きだ。恐る恐る顔色を伺うと、黒髪の忍びは飛び上がらんばかりに驚いている。そりゃそうだろう。完璧に気配を消しているところへ声をかけられたのだから。大きな目を見開いている若い忍びを安心させるようカカシは手をひらひらさせた。
「いや、なんていうか、袖振り合うもって言うじゃない。」
言ってる自分もわけわからん。カカシはあちゃ〜、と額を押さえた。ちら、と横目で相手を見ると、目を丸くして驚いていた黒髪の忍びはにこ、と無邪気な笑みを浮かべた。
「はい、ご迷惑でなければ。」
真っ直ぐな瞳だとカカシは思った。
黒髪の忍びが任務の汚れを気にするので戸外のいつもの席にした。街一番のカフェを自任するここの店員は躾が行き届いていて、こんな寒々とした日でもすぐに注文伺いにとんでくる。黒いベストにライトグレーのジャケットをきちんと着た店員がどうぞお使い下さい、と湯気をあげるおしぼりを持ってくるあたりは流石と言うべきか。店主は東の方にある遠い島国の出身なのだそうだ。細やかな気配りで店が大きくなったと聞く。黒髪の若い忍びは恐縮しながら、それでもおしぼりの温かさにホッとした顔をした。
「オレが誘ったから奢らせてね。甘いの好き?」
こくりと頷く若い忍びのためにモカジャバを頼む。もちろん自分はお気に入りのカプチーノだ。
「お腹空いてない?」
今度はぶんぶんと首を横に振る。そうする先から黒髪の忍びのお腹がぐう、と鳴った。ぷっと吹き出したカカシはクラブハウスサンドも注文する。
「すっすみません…」
頬を赤らめて身を縮める様はなんだか可愛い。
「今日はまた、いつもよりボロボロだねぇ。」
温かいおしぼりを使いながらそう言うと、驚いたように顔を上げた。カカシは肩を竦めてみせる。
「五月くらいからほら、アンタ、そこのケヤキの陰からずっと見てたじゃない。」
「きっ気付いてらっしゃったんですか。」
「ん〜、秋口あたりからはオレのこと、見てたかな?」
ボン、と音がするほど若い忍びの顔が赤くなった。
「すすすすみませんっ、てっきり普通の方だと…」
勘違いするのは無理もない。カカシはわざと忍びではないように振る舞っていた。だが黒髪の忍びは身の置き所がないという風に縮こまった。
「…オレの視線、五月蝿かったですね。」
「いや、いーのいーの。」
カカシは慌てて手を振った。だが、黒髪の忍びはしゅん、とうなだれてしまう。
「本当にすみません…」
「や、その…」
萎縮させたいわけじゃない。なんとかうまくフォローしなければ、と焦った所に飲み物がきた。天の助けとばかりにカップを差し出す。
「はい、どうぞ。」
黒髪の忍びが顔を上げた。おおぶりのマグカップのこんもりとたった生クリームの泡の上に小さく削ったチョコレートが散っているのをみて、若い忍びは大きな黒い目をキラキラさせた。カカシはにこ、と笑いかける。
「飲んでごらん。疲れがとれるよ。」
両手でカップを包むようにして一口飲み、ぱぁっと顔を輝かせた。
「おいしい…」
いちいち反応がウブで可愛い。
「そりゃよかった。コーヒーにチョコシロップが入ってるのよ。ここのは甘過ぎないからね、疲れた時のオレのおすすめ。」
「オレ、こんなの初めて飲みます。」
ふうふうと息を吹きかけては一生懸命飲んでいる。
「木の葉にはこういうカフェ、ないからねぇ。」
思わず頬を弛ませて言うと、黒髪の忍びがパッと目を上げた。
「よかった、お兄さんも木の葉の忍びだったんですね。」
おや、とカカシは感心する。一応どこの忍びなのか考えていたらしい。しかし服装からして中忍だろうからそれも当然だ。というより、口に出してはダメだろう。
「わかんないよ〜。木の葉の忍びっぽくみせた間者だったらどーすんの。」
わざとにんまりしてみせれば、黒髪の忍びはぽかり、と口を開けた。
「木の葉を狙う刺客かもしれないよ〜。ほら〜、飲み物のんじゃって大丈夫?毒はいってたりして〜。」
ちょっと意地悪を言ってみる。なにせこの若い忍び、本当に無防備で危なっかしい。しばらくぽかんとカカシを見ていた彼は、きゅっと口元を引き結ぶとモカジャバをごくん、と飲んだ。
「オレの直感じゃお兄さんはいい人だし木の葉の忍びだ。」
「はい?」
今度はカカシがぽかんとする番だ。黒髪の忍びはニカ、と笑った。
「それにオレみたいな新米中忍、殺しても騒ぎになるだけで得はないし、盗れる情報もそんなにないし。」
それから照れくさそうにぽりぽりと鼻の傷を指でかいた。
「お兄さんみたいに綺麗な人は目立つから間者に向かないと思う…」
カカシはあんぐりと口を開けた。黒髪の忍びは今更ながら真っ赤になってまたふうふうとカップを吹く。ムキになってカップを吹く。ぷっとカカシは吹き出した。
「アンタ、面白い子だねぇ。」
丁度きたサンドイッチの皿をそのまま目の前に押しやってカカシは笑う。
「食べなさいよ。」
目を輝かせてサンドイッチにかぶりつく姿を眺めながら、カカシはなんだかじんわりと温かい気分になっていた。
その若い忍びの名はうみのイルカといった。今年16なのだそうだ。
「そっか、イルカとは四つ違いか。」
「え、お兄さんは二十歳なんですか?もっと年上なのかと思った。」
サンドイッチを頬張っていたイルカは、もごもごそう言ったあと、慌てたように付け加えた。
「あ、違います。すごくしっかりして大人の雰囲気あるなぁって思ってたんです。だからもっと年が上なのかと。」
気配りタイプらしい。名乗ろうとしないカカシの立場も察しているようだし、頭の回転が早いのだろう。
「ひどいなぁ、まだ若いのに。」
わざとそう嘆くとあわあわと赤くなって慌てる。素直な子だ。
「ま、大人っぽかったってことで納得してあげましょ。」
それからもう一杯何か飲み物をとすすめる。だがイルカは困ったように眉を下げた。
「あの……オレ、今日、お金持ってなくて…」
素直で、しかも律儀だ。カカシは楽しくてたまらない。
「アンタ、本当に面白いねぇ。」
こんなに笑ったのは久しぶりだ。肩を揺らしながら今日は奢るっていってるでしょ、と言うと、恐縮しながらイルカは今飲んだのがいいと小さく言った。おいしかったらしい。
「ねぇ、イルカ。」
二杯目の注文をしたあと、カカシはずっと気になっていたことを口にした。
「イルカはどうしてカフェを眺めていたの?」
イルカがハッと目をあげる。
「オレの推測で悪いけど、もしかしてイルカは、任務の後必ずここに立ち寄っていた?」
イルカは僅かに顔を赤らめ俯いた。カカシは両肘をテーブルについてイルカの顔を覗き込むように首を傾ける。
「お腹すいていたとか…」
「ちっ違いますよっ。」
がばっと上げられたその黒い目をじっと見つめた。イルカはうぅ、と小さく呻き、みるみる首筋まで赤くなる。それからぽつりと言った。
「わ…笑いませんか…?」
「笑わない。」
「………」
真面目に答える。イルカがぐっと言葉に詰まった。赤くなったまましばらく唸っていたが、カカシが見つめ続けると観念したように息を吐いた。
「守ってるんだって思ったんです…」
オレごときがおこがましいですけど、とイルカは目を伏せる。
「中忍になって、色んな任務をこなせるようになって、そりゃオレだって忍びのはしくれですから、何だってやります。引き受けた任務で女子供や年寄りを手にかけても、それがオレの仕事ですから割り切ってます。ただ、そんな任務の後、こうやってみんながくつろいでるの見ると、あぁ、オレのやってることって少しは役にたってんだなぁって、偉い人達がモメて戦争がおこるよりずっとマシだって、なんだかそう思えて…」
忍び失格ですかね、オレ…
最後は弱々しくそう呟く。丁度モカジャバが運ばれてきた。カカシは両手を伸ばしてそのカップを持ち上げた。
「はい、イルカ。」
イルカは俯いたままだ。
「オレもね、そう思うから暇なとき、ここへ来るんだよ。」
え、とイルカが顔をあげた。大きな目をきょとんと見開いている。カカシは微笑んだ。
「任務ご苦労さん。はい、これ。」
持ち上げたカップをイルカに差し出す。おずおずとイルカがそれを手にとった。にっこりとカカシは笑う。
「それからね、イルカ。見ているだけじゃなくて、こうやってアンタもくつろいでのんびりしてもいいんだよ。一仕事終わったらオレたち忍びだって平和な風景の一部になれるんだから。」
見開いたイルカの目が揺れる。それをカカシは綺麗だと思った。
「ほら、おいしいよ。」
イルカの口が何か言いかけるように僅かに開いた。だが言葉にはならず、ただこくり、と頷くとカップに口をつける。
「……おいしいです。」
ふぅふぅと息をふきかけては一生懸命飲む。
「おいしい…」
その様子をカカシは微笑みながらじっと眺めた。
「ごちそうさまでした。ありがとうございます。」
二杯目のモカジャバを飲み終わったイルカは律儀に頭を下げた。
「オレ、お兄さんと話ができてよかった。」
へへ、と鼻のキズを指でかく。それからふと、何か言いたそうな顔をしたが、そのまま立ち上がってペコリとお辞儀をした。
「里に帰還します。」
中忍の顔で挨拶をする。
「イルカ。」
椅子から腰を浮かせて思わず呼び止めた。
「週末までオレ、休みなの。アンタも任務明けだから休みなんじゃない?」
イルカは目をぱちくりさせてからこくん、と頷く。
「じゃあ…」
立ち上がってカカシはイルカの側へ寄った。
「土曜日のこの時間、暇だったらまたここへおいで。」
自分の白いマフラーをイルカの首に巻いてやったのは何故だろう。イルカは戸惑ったようにカカシを見上げる。
「今度はカフェでくつろぎにきたうみのイルカとして、ね。」
一瞬黒い目を見開いたイルカは、ニカリと笑うと大きく頷いた。
椅子に腰をおろし、駆け去って行くイルカの後ろ姿をぼんやりと見送る。一つくくりにした黒髪がぴょこぴょこ跳ねながらケヤキ並木の向こうに消えた。カカシはどさり、と背をもたれる。
男の子相手に何やってんだろね、オレは。
一人苦笑して頭をかいた。
「さて、オレも帰りましょうか。」
カップの底にのこったカプチーノを飲み干し立ち上がる。誰かをカフェに誘うなど初めてだが悪い気分ではなかった。
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