翌朝、クラピカは遅くまでベッドにいた。泣き疲れたあげく眠ってしまえたのは、長い夜に悶々とするよりましだった。


起き抜けのぼうっとした頭で外を眺めると、昨日の花屋の娘が見えた。オレンジの花と真っ赤なバラの花を抱えている。

朝から配達か。結構なことだな。

そのまま、クラピカは花屋のことは忘れた。着替えて黒いコンタクトをつける。緋の眼があらわれないという自信はなかった。ただ、それを見られるのは絶対に嫌だった。



☆☆☆☆☆☆



十時かっきりに、クラピカはレオリオの部屋の前に立った。

えい、くそ、たかが恋人と別れるくらい何だ。ハンターとして何度も死地をくぐり抜けてきたじゃないか。

かなり無茶な論法で自分に活を入れると、クラピカはドアをノックする。待ちかねていたように、ドアが開いた。

「クラピカ。」

満面の笑みでレオリオが迎える。

こいつ、私と別れるのがそんなに嬉しいかっ。

むっとしながらクラピカは中へはいる。そして驚いた。

部屋の雰囲気が一変していた。部屋のあちこちにオレンジの花が活けられ、甘い香りをさせている。上品なうす緑の地に花をあしらったカーテンと、揃いのテーブルクロス。同系色の無地のランチョンマットの縁取りはレースだ。そして、例の、白磁にターコイズブルーと金のあしらいのティーセットがならべてある。しかもテーブルのまん中には真っ赤なバラの花を活けた白磁の花瓶。クラピカはあきれるとともに、心底悲しかった。


いくらなんでも、ここまで気合いをいれて私と別れなくったって…


椅子もティーセットも二人分、クラピカの席はここにはない。


レオリオは、お前、黒い目、あ、仕事帰りだもんな、と、一人納得して、 まあ、座れ座れと椅子をすすめた。クラピカは憮然とした。何のつもりかしらないが、ばかにするにも程がある。

「私が座るわけにはいかないだろう?」

レオリオは怪訝な顔をするが、すぐにああ、と手をうった。

「そうか、コンタクトはずしたいもんな。先にバスルーム使うか。」

的外れな答えを返した後、気ぜわしくドアをみやった。

「くっそ〜、おせぇな、あいつ、何やってんだ。」

やっぱり来るんじゃないか、好きな人が、ポンズが来るんだろう…

クラピカはぐっと唇をかみしめる。
その時、勢いよくドアが叩かれた。どきんとしてクラピカはドアに振り向く。栗色の髪の女性がドアを開けた。ポンズだった。サーモンピンクのブラウスが、雌鹿のように軽やかな足取りで部屋に入ってくる。クラピカは重いもので頭を殴られたような気がした。

やはり、好きな相手とはポンズだったのだ。レオリオは自分を欺いてポンズと連絡をとっていた…

全身の血が引いていく。まだ、見知らぬ女性のほうがましだった。

欺かれていた…

やり場のない怒りがこみあげてきた。

「おっせぇよ、ポンズ。あれがなきゃ、はじまんねぇんだ。」

腰に手をあて、レオリオが噛み付く。

「ごっめーん。」

ポンズは抱えていた荷物をどさっと渡した。

同居のための荷物なのか?

呆然とクラピカは二人を見つめた。

なにも別れる恋人の目の前で、そこまで酷い仕打ちをしなくてもいいではないか。

楽しげな顔のポンズとレオリオ。耳元で二人の声がぐるぐると渦を巻く。何をいっているのかわからない。わかりたくもない。

突然ポンズがクラピカを見た。それから、凍り付いたように立ちつくすクラピカに駆け寄ってくる。ぎくっとクラピカは身構えた。


私に寄るな…


だが、驚いたことに、ポンズはいきなりクラピカをぎゅっと抱きしめたのだ。

「おめでとう、クラピカ。とうとうレオリオのプロポーズ、受けちゃったのね。あ〜ん、もったいない〜。」
「……………は?」

ことの次第が飲み込めずクラピカはぽかんとした。

レオリオのプロポーズを受けた…?誰が…

ポンズはクラピカを抱きしめたまま、まくしたてる。

「もったいないわ、クラピカ、あなた、こんなにいい男なのに、レオリオなんかの想い人になっちゃって、もう、いつどこでどう口説かれちゃったのよ。」

クラピカはポンズに抱きしめられて、ただほうけたように突っ立っている。

おめでとうって…レオリオの相手はポンズじゃないのか?私がレオリオの想い人?

頭の中がごちゃごちゃになったまま、クラピカはぽかっと口を開けていた。そんなクラピカにポンズも目をぱちくりさせる。それからじろっとレオリオを横目で見た。

「なにやってんのよ。まだプロポーズ、してないの?レオリオ。あんなに気合いはいってたじゃない。」

レオリオが真っ赤になってぶんぶん手を振った。

「ばっばか、あれがなきゃはじまんねぇって言ったろーが。ぶちこわすんじゃねぇっ。」

ぷぷっとポンズが吹き出した。クラピカは当惑しながら恐る恐る問いなおす。

「その…ポンズ、プロポーズとは…?」

だー、やめろ、言うなっ、と騒ぎながら近付くレオリオをポンズはこともなげに蹴り倒した。そしてクラピカの手をとる。

「クラピカ、今からでも遅くないわ。こんなオヤジやめて、ちゃんと女の子と結婚なさいよ。あなたの子供、ぜったいかわいいにきまってるんだから。」

オヤジってな誰のことだっ、と起き上がるレオリオを邪魔、といってもう一度蹴り倒す。クラピカは唖然とするばかり。
ポンズはクスクス笑うとクラピカにむきなおった。

「だって、あなたとの関係にきちんとした形をとるんだ、ってレオリオが言ったのよ。それって、プロポーズってことよねぇ。」

わけがわからず、クラピカはただ目を見開いている。ポンズはクラピカの様子を見て、あ、やっぱりすごくかわいいわ、この人、もう、勿体なさすぎっ、と両拳をにぎって震えた。それから、言うな、やめろーと悲鳴をあげるレオリオを無視して話しはじめる。

「あたし達の一族って、蜂使いでしょ。でね、蜂蜜も扱ってるの。それも普通の蜜じゃないわよ。ハンターになろうかって女をだすような蜂蜜屋ですもの。」

ポンズは片目をつぶった。クラピカは、あ、と声をだした。

「ハンター試験は…あの…ポンズ…」
「もちろん、諦めてなんかいないわ。」

にこっとポンズは笑ってみせた。

「絶対受かって、ハンターになってやるんだから。あ、でね、レオリオが突然電話してきたのよ、極上の蜂蜜売ってくれって。しかも、どこから調べたのか、あたしのおばあちゃんがつくるクランベリージュースをね、あれは特別な顧客にしかわけてない限定物なのに、ゆずれってきかないの。そこまでがんばるんなら、理由を問いただすじゃない?そしたらねぇ、あれだもの。ひと肌ぬがないわけいかないわよ。」

ポンズはころころ笑った。

「では、ポンズ、あなたは…」
「そ、品物そろえるのに走り回ってたわ。今回限りって顧客に頭さげて。しかも一週間後っていう約束がいきなり今日だもの。もう、感謝してほしいわね。」

ああ、そうだったのか、メールとか、大丈夫とかいう会話は…

クラピカは力が抜けそうになった。ポンズは、大変だったんだから、と大仰にため息をつく。

「やっと昨日メドがついてね、電話入れたら、人の苦労も知らないで一人のろけるじゃない。あんまりハラ立ったから、感謝をこめてバラの花束でも届けるくらいなさいって言ったの。そしたらホントに持ってきたのよ。赤いバラの花束。よっぽど嬉しかったのねぇ」

ポンズは大きな目をくるくるさせる。クラピカは恥ずかしさと後悔でいたたまれなかった。

ポンズを疑ったりして、一人勝手に思い込んで恨んだりして…私はなんてことを…

申し訳ない、そう言いたかった。しかし、口をついて出た言葉は間の抜けたものだった。

「…だが…皆よくわけてくれたな。その…貴重なものなのだろう、おばあさんのクランベリージュースは…」
「ん〜、金髪美人に恋した男が、一生一度の命がけのプロポーズするんだって言ったら、皆快諾してくれたわよ。」

レオリオがまた真っ赤になった。

「おっおめぇ、そんなこと言ってまわったのかーーーっ。」

クラピカはまだ戸惑っていた。本当にレオリオは私のために?クラピカはぽそぽそと口を開いた。

「あ…あの、ポンズ…そのプロポーズの相手というのは…」

もしかして私なのだろうか?自信なげに問うクラピカの手をポンズはまた強く握った。

「もう、おばかさんね、クラピカ。あなた以外に誰がいるっていうの。みてよ、これ。」

ポンズは部屋の中をさししめした。

「二人の門出だから、全部かえたんですって。一昨日、蜂蜜とどけた時なんて、ちょっと水むけたらもう嬉しそうにみせびらかすのよ。洗面台の棚の中身ときたら、恥ずかしくってやってられないわ。」

ああ、全部、レオリオは自分のために用意してくれていたのだ。この新婚さんセットも青と赤の歯磨きセットもなにもかも。なのに早とちりして、なんて愚かな。取り返しのつかないことをしなくてよかった。

クラピカはほっとすると同時に、自分が情けなくてたまらなかった。二人に対するすまなさで一杯になった。床に目を落としたクラピカを、照れているのだと勘違いしたポンズはいたずらっぽい顔をして、棚の中身の説明をはじめた。

青と赤のお揃いのコップとタオルでしょ、ああ、もう、なんてセンスでしょ、しかも、歯ブラシまでお揃いの銘柄の青と赤なんだから、クラピカ、あなたがきっと赤使うはめになるわ、でね、それからね、としゃべろうとするポンズをレオリオが必死で遮る。

「用はすんだんだろーがっ。余計なこといわねぇで帰れっ。」

カリカリするレオリオにポンズはふふん、と鼻をならした。

「用はまだです。はい、請求書。ちゃんと振り込みなさいよ。でないと、殺人蜂さしむけるから。」

ハンターを目指すだけあって、愛らしいくせドスがきいている。女は恐いな、内心クラピカは舌をまいた。ポンズは相変わらずクラピカの手を握っている。ふいに、ポンズが真面目な顔をした。きゅっと握った手に力をこめる。

「ねえ、クラピカ。幸せになってね。あたしも、あなた達に負けないくらい、素敵なパートナー見つけるわ。そして絶対見せびらかしにくるから。」

大きな瞳をきらきらさせてポンズは笑った。
蜂蜜屋が甘さで負けてられないもの、と肩をあげてみせるポンズは花のようだった。クラピカも笑った。本当に可憐なひとだ、心の底からそう思った。

「あなたならきっと、ポンズ、素敵な人を見つけられます。あなただけを見つめる素敵な人を。あなたは…」

少し首をかしげると、クラピカは素直に言った。

「あなたは、オレンジの花の香りのように甘く可憐な人だから…」

一瞬の間の後、レオリオとポンズが同時に叫んだ。

「クックックラピカっ、お前、いっいつから女口説くようになったっ。」
「いや〜ん、やっぱりもったいない〜〜〜〜っ。」

ポンズがひしとクラピカにしがみつく。

「ねぇ、クラピカ。この男と一緒になるの、考え直しなさいよ。あなた、子供作るべきよ、絶対っ。ね、なんだったら特定の恋人なんか作らずに、あちこちで子供たくさんこさえちゃいなさいってば。」

クラピカはどう答えていいかわからず、はははと曖昧に笑った。レオリオはひたすら焦っている。
名残惜しげにポンズはクラピカを離すと、ため息まじりにカードをとりだした。

「これ、あたしのホームコード。今日はもう退散するけど、また連絡ちょうだいね。」

それからレオリオにむきなおり、こんな美形のいい男、たらしこむなんて、あんた女の敵よ、でもまあ、がんばってね、とひらひら手を振った。



☆☆☆☆☆☆



ポンズを見送り、二人はあらためてお互いを見た。照れくさそうに二人は目をそらす。レオリオはぽりぽり頭をかくと、まいったな、と呟いた。横目でちらっとクラピカを伺い見ると、小さく言う。

「…あきれたか…?」

クラピカは俯いたまま、蚊のなくような声をだした。

「…レオリオ…」

しばらくためらった後、 上目遣いにレオリオを見る。

「…実は私は…私は…」

クラピカは恥ずかしそうに笑った。

「今朝から何も食べてないんだ。」

本当はこの二日、ろくに食べていないのだが、まさか失恋したと思い込んで食欲がなかったなどと言えるはずがない。だから、安心した途端、急にお腹がすいてきた。

レオリオは、ははっと笑い、改めてクラピカをテーブルに案内した。
クラピカが椅子におさまると、今朝買ってきたばかりの焼きたてパンを籠から取り出す。パンを片手に持ち、レオリオはナイフで巧みにスライスした。
ライ麦パンをふた切れ、ふかふかの白パンをふた切れ、そしてポンズの蜂蜜をたっぷりかけた。黄金色の蜂蜜がパンからこぼれて白い皿に滴った。その横の皿にレオリオはチーズをのせる。白いプリーチーズがふた切れ、大きな穴のあいている黄色いエメンタールチーズがふた切れ。
クラピカのお腹の虫がぐぅっとなった。

「まあ、待てよ。」

レオリオはポンズの持ってきた包みを開けた。クランベリージュースの大瓶をあけると、足付きのグラスに注ぐ。透明な赤がきらきらゆらめいた。

クラピカはその赤色に息を飲んだ。赤いバラの横で揺らめく透き通った液体は、あまりに美しかった。心に底に沈んだ澱が浮かんでくる、そんな感覚に我知らず顔が曇る。
ふいにレオリオが言った。

「おれは赤が好きだよ…」

静かな声だった。

「時々、お前は言うよな、赤は嫌だと…お前の目の色だから、人の血の色だからって。」

クラピカはドキっと顔をあげた。レオリオがクラピカに微笑みかける。

「おれは好きだよ。お前の目の色だから。人の血の色だから。」

だってそうだろ?レオリオはグラスを手にとってゆらした。

「命の源の色だろう?血っていうのはよ、食ったもんの栄養を、大気の酸素を、いってみりゃ大地の力をおれ達にくれるもんだ。生きる力の色なんだよ。それに…」

なにより、お前の目の色だしな、そういってレオリオはまた微笑んだ。息を飲んだまま、クラピカはレオリオをじっと見る。気障か?レオリオは少しおどけてみせた。それから、照れた仕種でグラスをおいた。赤いバラの花が微かに揺れる。

「クラピカ。」

突然、真面目な声で名を呼ばれて、クラピカはどぎまぎした。頬がかっと熱くなる。それほど、レオリオの声は力に満ちていた。まっすぐクラピカの瞳を見つめる。

「おれのところに帰ってきてくれ。」

きっぱりとレオリオは言った。クラピカの心臓が早鐘をうつ。わずかに唇が震えた。だが、言葉がでてこない。

「今までと同じでいい。必要な仕事がありゃ行ってこい。ただ、必ず帰ってきてくれ。一日がおわって家路につくようにおれのところへ帰ってこい。そして、おれのところから出勤するんだ。朝、こうやって、お前の髪の色した蜂蜜をパンにたらして、瞳の色したジュースで元気つけて…」

レオリオは言葉をきった。真剣な眼差しだ。クラピカは何も言えなかった。やがてレオリオはゆっくりと深い声で言った。

「…生涯おれと一緒に生きて欲しい。」

クラピカは大きく目を見開いたまま、動くことができなかった。黒耀石の瞳の男はただひたすらに自分を見つめる。その目には静かな炎が宿っていた。

このためにお前は用意したのか…

クラピカは胸が詰まった。
ポンズに頼んだ蜂蜜とクランベリージュース。レオリオが頼んだ品物は、どちらも極上のものだった。

蜂蜜はクラピカの髪の色、そしてクランベリージュースは瞳と血の色。

お前にとって、私は価値あるものだと信じてもいいのか?

そして、クラピカははっきりと悟った。レオリオからの最も大切なメッセージ。


自分自身を忌み嫌うな…


食べる、生きるための最も基本的な行為、だからこそレオリオはクラピカへの言葉を食べる物に託したのだ。

ああ、そうだ、レオリオ。今までも、おそらくこれから先も、私は屍の上に立たねばならない。だが、流した血が、流された血が忌わしいものであったとしても…

クラピカはレオリオの想いを抱きしめた。誓いの言葉をそっと呟く。


私は己自身を慈しもう。そして世界をいとおしもう。


海からの風が窓からさっと吹き込んだ。白いレースのカーテンが揺れた。窓から見える真っ青な空を背に、レオリオはクラピカを見つめている。明るい光がさしていた。真っ赤なバラが、赤い飲み物のグラスの下にその花びらをひとひら散らした。 ふいに海辺の丘で出会った男の子の、はじけるような笑顔がよぎった 。

真っ赤は元気の色、そうだった、坊や…

クラピカはうつむいて微かに笑った。




クラピカが黙ったままなので、さすがにレオリオは不安そうな顔をした。拒絶の言葉を封じるように、口ごもりながら話題をかえる。

「あ…いや、なにも今すぐ返事しろってわけじゃねぇんだ…その…とっとにかく考えといてくれ。さ、メシ食うか、ハラへってるんだもんな。わっ悪かった。今、熱いコーヒーわかすから…」

立ち上がろうとするレオリオにクラピカがよびかけた。

「レオリオ。」

澄んだ声音だった。ぎくっと体を揺らすと、レオリオは決まり悪そうにクラピカをみた。

「嫌だっつう返事はきかねぇからな。」

ぼそっと呟く。
クラピカはおかしかった。

あんなに自信たっぷり口説いたくせに、もうこんなにうろたえている。ああ、本当に、レオリオ、君はなんて愛すべき男だろう。

クラピカは目を閉じると、 一言一言を噛み締めるように言った。

「レオリオ、私は、お前のところへ帰って来よう。」

レオリオが息を飲む。目を開けたクラピカの瞳は柔らかい光をたたえていた。

「私は必ず帰ってくる。そして、こうしてお前と朝食をとろう。」

今度はレオリオが動けなくなる番だった。椅子の上でカチコチに固まっている。夢見るようにクラピカは続けた。

「私は朝寝坊だから、焼きたてのパンはお前が買ってきてくれ。少し酸味のあるライ麦パンとふかふかの白パンがいい。お前のために、私は蜂蜜を壷からうつすよ。チーズを切ったり、二人でベーコンや卵を焼いてもいいな。それから、真っ赤なクランベリージュースを一緒に飲もう。ちゃんと食べて元気をつけて、お前は大学に、私は仕事に…」

それは自分の夢だったのかもしれない。浮き草のようなハンター稼業でも、やろうと思えば手の届く日々の営み。ただ、失うのを恐れて、踏み出す勇気がなかった。

「そしてまた、帰ってくる。夕方、仕事を終えた人々が家路をたどるように、私はお前の元に帰ってこよう。今は毎日、というわけにはいかないが、いずれお前が仕事をはじめたら…」

ずっと一緒に暮らせるかもな、クラピカは微笑んだ。赤いバラのむこうで、バラに負けないくらいレオリオが赤くなった。心底嬉しい、という顔をして、子供のように何度も頷く。クラピカも嬉しそうに笑った。



お互い、安心しきってしまうと、いきなり腹の虫がきゅうきゅうさわぎだした。

「メシ、食うか。」

レオリオが椅子に座りなおす。

「もう、ぺこぺこだ。」

クラピカはパンにかぶりついた。たっぷりの蜂蜜がパンから溢れる。滴る金色の雫は指で受けて残らず舐めた。何の蜜なのか、くせがなくて濃厚な甘さだった。ジュースときたら、ホテルで飲んだものとは比べ物にならない。すっきりした甘味と酸味と香り、クラピカは二杯目をおかわりした。レオリオが満足そうに、ビタミンCとポリフェノールが豊富なのだとうんちくをたれた。海風がふきこむ。そのたびに、オレンジの花とバラの花が交互に香った。まだ食えよ、そういいながら、レオリオはパンを切っている。 クラピカは新しく切ってもらったライ麦パンに蜜をたっぷりかけながら思った。


満ち足りる、とは、こういう感覚をいうのかな…


レオリオが熱いコーヒーを運んでくる。本当に、満ち足りた気分だった。


こうなったら、赤い歯ブラシだろうが、赤いコップだろうが使ってやろうじゃないか。 いや、たとえ寝室に赤いパジャマが待ち構えていたとしても、文句はいうまい。


コーヒーをすすりながら、クラピカはレオリオを眺めた。

緻密にしてその根本は冷徹。たしか、ハンターとしての私の評価はこうだったように聞いたが…

クラピカは苦笑いした。

この男にばかりは通じないな。

この二日の自分の不様さといったら。
だが、けして悟られまい。ただでさえこの黒髪の男に弱いのだ。このうえ弱味をさらしては、どんな無理難題をふっかけられるかわかったものではない。それに…

パンをかじりながら、クラピカは昨日のことを思い出していた。

グラマー美人とみると、声をかけてまわるあの性格、すこし叩きなおす必要がある。立ち話していた女達のことも白状させねばならないし。

レオリオは浮き浮き、コーヒーを注ぎ足している。クラピカは決心した。

しばらくここに腰をすえて、こいつの性根を叩きなおそう。ついでに、自分が心配しなくてもいいくらいには念を仕込んで。そうだ、大学が夏休みにはいったら、師匠にたのんで鍛えてもらおう。食事が終わったら早速師匠に連絡をとるぞ。

大きな目がじっと自分を見るので、レオリオは、ん?と顔をつきだした。クラピカはにこっと笑い返すと、甘い声でレオリオに囁いた。

「毎朝、こうしてクランベリージュースを君と…」

とたんにへらっとレオリオの鼻のしたがのびた。まだ飲めよ、と赤いジュースの瓶をあける。
クラピカが何を決心したのか、レオリオは知る由もない。


初夏の風が恋人達の食卓を優しくなでて、そっとバラの花びらを散らしていった。
                                   


                            おわり

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
勘違いクラピカさんのお話、「クランベリー」でした〜。この続きは、今度は勘違いレオリオさんのお話、「幸せのかたち」ですが、これはオフ本のみといたします。いや、だって、買って下さったかたに申し訳ないし、ちょっち「大人仕様」なんで表にのせるわけいかないし…たまにはレオリオさんもいい思いするんですよ、たまには。
さて、次は新連載開始です。「クランベリー」「幸せのかたち」の続きってことで、吐くものなくなるくらい甘い話でありまする〜。読む方は相当の覚悟できてくださいねっ。