オレの名前はうみのイルカ、36歳。
六代目に就任したカカシさんの補佐官をやってたけど、里も安定してきたことだし、去年からアカデミーに教頭として復帰している。ホントは担任とか持ちたいんだけど、なんか次期校長だからとかなんとか言われて普通に復帰させてもらえなかった。
あ、いや、そんなこたぁどうでもいいんだ。
オレは今、とんでもない事態に陥ってる。
カカシさんがオレ以外に嫁囲ってるとかあの野郎マジぶっ殺す
あ、いや、オレのカカシさんが外道だってわけじゃなく、この世界のカカシさんってことで、でもやっぱりカカシさんはカカシさんなわけで
やっぱぶっ殺す!
「あにさん、唐突すぎて誰も理解してくれやせんぜ」
「言うなボロ、オレだって大混乱中なんだ」
「あっしの名ぁ千手院是清でやすっ」
オレの肩の上でキーキー騒いでるのは赤ん坊猫だ。赤ん坊といってもコイツは二百歳の化け猫なんだがな。見た目が灰色と茶色と黒の混じった手の平サイズの毛玉なんでボロ雑巾のボロって呼んだら毎度おかんむりだ。
まぁ、そんなこたぁどうでもいい。さっきも同じこと言った気がするが、そんなこたぁどうでもいいんだ。
あんのクッソカカシ、何が女のとこ行って頭冷やすだぁ?
ぶっ殺す!
オレぁ目の前でヘラヘラしてる『はたけカカシ』を睨みつけた。同じ顔をしていてもこうも違うかってくらい、オレのカカシさんとコイツはかけ離れていた。
頭のてっぺんで一括りにした黒髪と鼻の上を横切る古傷がトレードマークのうみのイルカは現在、木ノ葉の本部棟最上階にある火影の執務室にいた。もちろん、大事な相棒である化け猫、千手院是清も一緒である。応接セットのソファにかけ、今、イルカと子猫は状況を説明しようとしているところだ。
なにせここはイルカの住む木ノ葉ではない、別な世界の木ノ葉の里なのだから。
「でやすからね、あっしらはパラレルワールドっていいやすか、別な木ノ葉の里からとばされてきたんでやすよ」
カッカと頭に血が上っているイルカにかわり、子猫が話をすすめた。
「ことの起こりといいやすか、こりゃあだいぶん時を遡って、かれこれ十年近く前になりやしょうか、あっしがあにさんとカカっさんの恋のキューピットになりやして」
「おまっ…そっから言わなくていいだろ、もっと後のことから言えよ」
「いやぁ、あの時は苦労しやした。カカっさんに惚れてるくせあにさん、ビビって逃げまくるもんで、あっしが一芝居うちやしてねぇ」
「お前なっ」
赤くなってイルカは子猫を制止するがどこ吹く風である。そう、見た目は手の平サイズでも二百歳なのだから、とにかくふてぶてしい猫なのだ。
この化け猫とイルカが関わりをもったのはまだ25歳の時だった。任務帰りにたまたま穴に落ちていた子猫を助けてやったのだが、その時はまさか齢二百の化け猫だとは露とも思わなかった。イルカの目には野っ原に空いたちょっとした穴に落っこちていたようにしか見えなかったのだが、実のところそれは陰陽師の仕掛けた罠だったのだそうだ。化け猫のしきたりで恩返しをしようとする是清に願い事を聞かれ、嫁、とこたえたイルカの元へ連れてこられたのが当時、イルカが担任した子供達の上忍師を務めていた『はたけカカシ』だった。化け猫のちょっとした勘違いが原因だったのだが、嫁取りの術は発動してしまい、てんやわんやの末に二人はめでたく互いを伴侶とした。
思い出しても気恥ずかしい出来事てんこ盛りだというのに、この化け猫、当時のことから説明しようとするので慌てて止めたのだ。
「あれぇ、あにさん、ガラにもなく照れてやすな。もう三十路の半ば過ぎるってぇお人が」
カラカラと笑う子猫にイルカは耳まで赤くなる。
「まぁ、三十路半ばでこの初々しさがたまらん、とか抜かしてやすよ、あっしらの世界のカカっさんは」
「ほぅほぅ」
「あっしらのカカっさんはそりゃあ優しいお人なんでやすが、結構強引なとこもありやしてね。あにさんに惚れたってなったらもう一直線、寄ってくる虫叩き潰してあにさんを独占でさぁ」
「おまっ、恥ずかしいこと言うなよ、どーでもいいだろそりゃ」
「いやいや、おぬし達のこと、くわしゅう聞かせてくれぬか?のぅ、違う世界のイルカよ」
「さっさっ…」
ぶわり、とイルカの黒い目に涙の粒が盛り上がる。
「三代目、お懐かしゅうございますぅぅぅ」
イルカと子猫の座るソファの向かいで頷いているのは木ノ葉の里長、三代目火影、猿飛ヒルゼンであった。この世界でも九尾の災厄の時に四代目火影が亡くなった。そしてすぐに三忍の一人、綱手が五代目としてたったが、医療忍者の育成にも携わっているため、三代目と共同統治の形をとっているのだという。
木ノ葉崩しのことを尋ねたがそういうことは起こっていないそうだ。はじめてこの執務室に入り、三代目に目通りしたイルカは号泣した。そして今も三代目が口を開く度に涙腺が崩壊する。そんなイルカを老翁は慈愛に満ちた目でみつめ微笑むのだ。
「よいよい、泣かずともわしはここにおる」
「うぅぅ、はい、はい、三代目…」
ごしごしと拳で涙を拭えばソファの横に置かれたイスからうんざりとした声がした。
「ねぇ、話すすまないからさぁ、さっさとしてよ。オレ、女のとこ行かなきゃだし?」
「クソか、テメェはっ」
がぁ、と吠えた先にいるのは逆だった銀髪に鼻の上まで黒い口布で覆ったイケメン、はたけカカシだ。この世界のカカシは27歳、そしてイルカの他にもう一人、カカシ言うところの「第二夫人」を囲っている糞野郎である。
「三代目、なんだってこっちのオレぁこんなクズ野郎に惚れたんスかね、っつか止めてくださいよ、里長命令でもなんでも止めてやってくださいよ」
ビシリ、とカカシを指差せば当のカカシはフンと鼻で笑った。
「なぁに言ってんだか。こんなイイ男のモノになれたんだから感謝されこそすれ文句を言われる謂れはなーいね」
「だぁぁ、コイツ、マジでクソ野郎だな」
「わしも止めたのじゃがなぁ、この世界のおぬしもなかなかに頑固での」
「チョロすぎだろ、こっちのオレぇっ」
「あにさんはもう黙っててくだせぇ。話がすすみやせん」
ぐおお、と頭を抱えるイルカにかわって子猫がため息まじりに言った。カカシが嬉しそうに頷く。
「そーしてよ。女待ってるし」
「……クズでやすな」
「だーよーなーーっ」
一人と一匹は顎をしゃくってペッペッと同じリアクションをとる。三代目とカカシが目を丸くした。
「なに、別な世界のイルカ先生、随分下品じゃない」
「こっちのイルカもおぬしくらい気骨があればのう」
その評価は対極だ。ふん、と鼻を鳴らすイルカにかわり子猫が話を続けた。
「ことの起こりは今から七年ほど前でやす。ありゃあ梅が満開の時でやした。あっしとカカっさんはあにさんに頼まれたカレーの材料と春の菓子祭りでおやつを買いに出たんでさ」
「このオレが買い物?カレーの?」
「ふむ、そちらのカカシはよう出来た奴じゃの」
どちらも酷く驚くがまたしても反応のベクトルは真逆だ。
「そのまんま、あっしらは別な世界、パラレルワールドってぇ奴に飛ばされやしてね、後々聞けばその世界のカカっさんはあっしらの世界に現れたっていいやすから、入れ替わったってとこでやすな」
子猫はどこか懐かしい顔をした。
「あっしらは四つの世界を回りやした。どの世界でもカカっさんとあにさんは恋人同士で、でも問題抱えてやしてね、あっしとカカっさんでそいつを解決しちゃあ次の場所に飛ばされるってぇ具合で、そりゃあ大変でやしたよ。ただねぇ、さすがはパラレルワールドっていいやすか、あっしらの世界じゃとうの昔に死んじまってる人達が元気に生きてる世界もありやしてね、カカっさん、懐かしい人達に会うことができやしてねぇ」
子猫の紺色の瞳がじっと三代目をみつめる。
「四つ目の世界で三代目に会えたカカっさんも泣いてやしたよ」
三代目が優しく目を細めた。対してこの世界のカカシはシラケきった顔であらぬ方向を眺めている。
「あっしら、まぁ無事に元の世界へ帰れたんでやすがね、七年たって今度はあにさんと飛ばされることになるとは考えもつきやせんでしたよ。しかも七年前に巡った世界を順番に回りやしてね、あにさんにとっちゃ向こうから飛ばされてきた色んなカカっさんに再会でさぁ。ちょいと問題も抱えてやしたが、そいつぁあっしらでチョチョイと解決しやしてね、ねぇあにさん」
「そうだ、オレ達にかかりゃチョチョイノチョイよ」
「かっわいくな〜い」
ムフン、と腕組みしたイルカが鼻を鳴らせばカカシが小さくつぶやいた。険悪な空気が流れる。
「外道に可愛いとか言われたかねぇわ」
「うっわ、ホント下品だよね。こっちのイルカ先生はそんな言葉遣いしないよ?」
「オレのカカシさんだって二股かけるような外道じゃありませーん」
「はぁ?二股じゃないし?互いに納得してるのに文句言われる筋合いなくない?」
「マジクソだな」
「下品だなぁ」
「まぁ待たぬか。おぬしら、元々別世界の人間じゃ。ここで喧嘩をしてもしょうがあるまい」
三代目に止められ二人はしぶしぶ言い合いをやめた。子猫が三代目を見上げる。
「本当なら四つ目の世界を回った時点であっしらは元の世界へ帰れるはずだったんでさ。なのに何でこの世界に来ちまったんだか」
「ふむ、七年前、おぬし達の世界のカカシはこっちへは来ておらぬのだな」
「あっしらのカカっさんは今年の9月で37でやす。七年前、そこの小僧と入れ替わったんなら誰が見てもわかりまさぁ。二十歳のガキがいきなり三十男になるんでやすからね」
そう、この世界のカカシは現在27歳だという。イルカの世界のカカシ同様、戦争時に親友の写輪眼を移植されたのだそうだ。ただ、この世界ではうちは一族のクーデター未遂事件はあったがイタチによる一族惨殺事件はなく、それどころかクーデターを潰した功績によりイタチがうちは一族を束ねていた。そのイタチから写輪眼の使い方を色々と伝授されたそうだ。サスケのことを聞けばお兄ちゃんっ子で素直だと三代目は言う。イルカは内心ホッとした。どんな形にせよ、辛い思いをしていないならそれが一番だ。
「三代目、九尾の災厄で四代目は亡くなられたとおっしゃいましたが、じゃあナルトはどうしているんです?」
イルカの問いに里長は心配ない、と頷いた。
「確かに九尾の災厄で多くの忍びが、おぬしの両親も四代目も命を落とした。じゃが、九尾が封じられたのはおぬしの世界のようにナルトではなくクシナの体じゃ。元に戻されたと言ったほうがよいかな」
「クシナさんって、ナルトのお母さんは生きてるんですか」
「生きておる。ナルトはクシナが育てておるよ」
「よかった…」
イルカは思わず安堵のため息をついた。
「よかった、ナルト」
しみじみと名を呼ぶ。三代目が微笑んだ。
「向こうの世界でもイルカはナルトを慈しんでおるようじゃな」
「じゃあ、こっちのオレも…」
「随分な悪戯っ子でな、こっちのイルカにとっては手のかかる子ほど可愛いようじゃ。ナルトもようなついておる」
へへへ、とイルカは鼻の傷を指でこすった。
「どんな世界のナルトもオレにとっちゃ大事な弟みたいなもんなんです」
「それを言うならオレの弟でしょ。なんたって先生の子なんだから」
カカシが不機嫌そうにイルカを睨んだ。
「アンタ、この世界でもナルトの、七班の上忍師なのか」
「悪い?」
イルカが口をひん曲げる。
「ナルトの先生になったんならもちょっと身を慎むとかしねぇのかよ」
「私生活をとやかく言われたくなーいね」
「三代目、なんでコイツ、こんな育ち方したんスかねっ」
思わず指差せば三代目が眉を下げた。
「早くに父を亡くしたカカシを四代目は可愛がっておってな。その四代目が夭折してしもうて、こやつはまた一人になってしもうた」
「三代目、余計なこと…」
ムッと言うカカシを手で制した三代目は苦笑いする。
「それが不憫じゃというてわしの弟子達がのぅ、甘やかしてしもうて」
「……弟子達ってまさか」
ん?と三代目が目をあげた。
「自来也と大蛇丸、綱手、三忍と呼ばれるわしの弟子達じゃ。綱手は五代目を継いだが、おぬしの世界ではどうじゃな?」
「おっ大蛇丸…」
禍々しい名前だ。多くの不幸の種を蒔き木ノ葉崩しで三代目の命を奪った忍び、忍界大戦後も監視がついている。だが三代目は我が子を語るように目を細めた。
「あれは子煩悩な奴でのぅ。綱手や自来也もカカシにかまったが大蛇丸はもう目に入れても痛くないような可愛がりようで」
「は?」
イルカは絶句した。大蛇丸が子煩悩?だがさらなる爆弾が投下された。
「カカシはほとんど大蛇丸に育てられたようなものじゃ。カカシ君カカシ君とそりゃあ甘やかしおって、おかげでコヤツ、忍びの腕は三忍をも凌ぐと言われるがとんだ駄々っ子に育ちおったわい」
衝撃発言にイルカは真っ白になる。
大蛇丸に育てられた、こっちのカカシは三忍、特に大蛇丸に…
ぎぎぎ、と音がしそうなぎごちなさでイルカは横のソファに座るカカシを見た。
子煩悩大蛇丸に育てられてとんだ駄々っ子に…
「なによ」
唯一見えている右目に不快の色を浮かべるカカシを上から下まで眺める。
「そっかー、大蛇丸様に…」
生ぬるい視線を送った。
「そっか、するとこうなるのかぁ…」
「だから何」
「…いや、別に…」
ちょっと目が遠くなる。
オレのカカシさん、こっちのカカシさんはある意味可哀相かもしれませんよ〜
「ある意味可哀相でやすな、こっちのカカっさんは」
心の声は子猫が代弁してくれた。
〜中略〜
上忍待機所の入り口も十年前の木ノ葉の姿でなんだか懐かしかった。ノックしてドアを開ける。
「失礼します。装備請求と人員請求の書類お持ちしました。いつものフォルダーに入れておきますので…」
そこまで言ってイルカはぽかんとなった。淡い空色の裾広がりにふわりとしたワンピース姿の見たことのない女性が中にいる。目の大きな綺麗な女性だ。サラリとした長い黒髪は腰まである。そして明らかに忍びではない。事務職員でもない。
周辺事務所や機密性のない部署では一般人も働いているが、里の中枢である本部棟に一般人の職員はいないはずなのだ。たとえこの世界では忍び以外の人間を職員としてい採用しているとしても、それならば職員証をつけていると思うのだが、事実、イルカの世界での一般人職員は常に職員証の携帯を義務付けられている、それらしき物を身に着けてはいない。
しかもここは上忍待機所だ。中忍以上でなければ立ち入ることが出来ないエリアなのに何故一般の里人が中にいるのだろう。ここには家族ですら許可証なしには立ち入れない。その許可証も常に胸に下げておく決まりなのだが。
「失礼ですが」
たまに傲慢な上忍が規律違反をすることがある。それを正すのも受付職員達の務めだ。でなければ里の安全が保てない。
「許可証の提示をお願いします」
「え…」
女性は明らかに困惑した。イルカは穏やかに微笑む。
「申し訳ありません。里中枢部への立ち入りは規則で厳しく管理、制限されています。許可証の提示をお願いするのも規則ですので」
「……持ってませんけど、許可証なんて」
「は?」
イルカは戸惑った。持ってない?だが許可証なしにどうやって結界をくぐったのだ。
「あの、どうやってここへお入りになられたんですか?」
「上忍の方に頼んで入れてもらいました。いつものことですし」
いつものこと?この女性はいつも勝手に出入りしているというのか。
唖然とするイルカに何を今更、といった視線をなげると女性はくるりと踵を返し手に持っていた重箱を待機所のテーブルに置いた。
「どうぞ、皆様。そろそろ小腹のすくお時間かと思いまして作って参りましたの」
重箱の蓋をとればそこにはちらし寿司だの煮物だの焼き物だのと色とりどりに詰め合わせてある。要は弁当だ。イルカはあんぐりと口を開けた。一般人が勝手に出入りするばかりでなく食べ物を持ち込むなどありえない。あの一楽ですら本部棟に出前には来られないというのに。というより、本部棟に持ち込まれる食べ物はお茶請けの駄菓子にいたるまで厳しいチェックを受けているはずなのだ。でないと毒でも仕込まれたら中枢が麻痺する。なのに女性が広げた弁当に上忍達が喜々として寄っていくではないか。
「やー、いつもすいませんね、奥さん」
「奥さん、料理上手でありがたいっすわ」
「まぁ、いやですわ、お上手おっしゃって」
女性は当然のことのように料理を紙皿へとりわけては箸と一緒に渡している。
「ちょっと待って下さい。何をしているんです、あなた方は」
思わずイルカは制止した。
「あなた、許可証は持ってないとおっしゃいましたね。この料理はチェックを通したんですか?」
女性が目を丸くした。
「チェックって、別によくないですか?いつものことですし」
「いつものこと?」
もう呆れを通り越して笑えてくる。なんなのだ、この里のセキュリティのヌルさは。そして上忍達の警戒心の薄さは。
「あのですね」
「もう聞き飽きました」
女性がうんざりとした口調で言った。
「わたくしはただ、上忍の皆さまがお疲れだろうって、それで差し入れしているだけですのに、うみのさんはいつも許可をとかチェックとかおっしゃいますのね。そんなものなくてもいいって言われましたし、現に大丈夫じゃないですか」
さすがはこっちのオレ、ちゃんと注意はしてるんだな。
見逃さないあたりは若いこっちの自分を褒めてやりたいが、この様子だと完全に押し負けている。やはりこっちのイルカは不甲斐ない。
ま、三代目も好きにやれって言ってたし。
イルカは厳しい顔になった。
「いつも言われているのに何故実行しないんですか。なくてもいいと言ったのが誰かは知りませんが、規則は規則です。即刻それを持って帰りなさい」
ピシャリと言えば女性はビクリと体を震わせた。大きな目をみるみる潤ませる。
嫌な女だ。
イルカは眉をひそめた。若い頃なら怯んだかもしれないが、すでに三十も半ばのイルカには効かない。なんというか、全部ミエミエなのだ。
「泣くくらいなら許可を取りなさい。そして上忍の方々」
折り詰めに寄ってきた上忍をギロリと睨む。ヒッと上忍達が息を飲んだ。伊達に修羅場はくぐっていない。各国の古狸達とやりあってきた元六代目火影補佐官の眼光はイルカ自身、気づかぬくらいに鋭く威圧的だ。
「木ノ葉の忍びの頂点に立ちながらその危機意識の薄さはなんですか。チェックを受けていない食べ物を口に入れるなど、もし敵に隙をつかれたらどうするおつもりです」
「わっわたくし、毒なんか…」
「あなたがどうこうではない」
目をウルウルさせながらか細く抗議してくる女性を一言で黙らせた。
「忍びではない人間の持ち物に何かを仕込むなど、赤子の手をひねるより簡単だ。だから本部棟の立ち入りや飲食物の持ち込みに厳しいチェックが課せられているのだと前にお話しませんでしたか?事と次第によっては貴方自身にも危害が及ぶんですよ?」
ビシリ、と人差し指でドアをさした。
「それを持ってお帰りなさい」
ひゅっと喉を鳴らし、女性はバタバタと折り詰めをまとめると転がるようにドアから出ていった。
ったく、ろくでもねぇ女だ。
イルカは女性の出ていったドアを呆れ顔で眺める。
「おっおい、うみの中忍。なら聞くがな」
ぼそぼそと上忍の一人が言った。中忍にやり込められたのが悔しいのだろう。
「オレら上忍は里の飲食店で気軽にモノも食えねぇのかよ。あそこは別にチェックなんざ」
「してるんですよ、全ての里の飲食物を扱う所はね」
お前らホントに上忍か。思わずそう言いそうになった。
「我々事務方の仕事が本部棟の中だけとでも思ってらっしゃいましたか?たとえ暗部の方々でも里の中でだけは安心して飲み食い出来るよう環境を整えるのも仕事の一環です。そのやり方は最重要機密事項ですが」
イルカは心底アタマに来ていた。もうこの世界のイルカらしく振る舞おうなどという気遣いは微塵もない。アカデミー教師でも受付事務でもない、六代目補佐官の顔全開でその上忍をジロリと見た。
「まさか上忍の方々がご存じないとは思いませんでしたよ」
待機所はいつの間にかしーんと静まり返っている。イルカは書類用紙を所定の場所にさっさと置くと失礼しました、と待機所を出た。
「いったい何なんだ、この里は」
色んなことがなんだかえらく気に障っていた。
〜中略〜
うっかりしていた。自分はここのイルカとして過ごさなければならないのだ。
「で、なんか今朝は変な雰囲気なんだけどお前、わけ知ってんのか?」
「イルカ、お前、気付いてないの〜」
カンパチが情けない声を出した。
「昨日お前さ、上忍待機所でやらかしたじゃん」
「待機所だぁ?」
うーん、と昨日の待機所を思い出しイルカはぽん、と手を打った。
「あぁ、アレか、あの女か」
「お前、ツユクサさんのこと、あの女とか言っちゃっていいの?差し障りない?」
そうか、ツユクサというのか、あの女。
イルカの眉間にしわがよった。誰が後ろ盾かは知らないがとんでもない女だ。組織の中にあんな毒を持った女が入り込むと厄介なんだがなぁ、と考えをめぐらしていると袖を引かれた。
「ん?」
「だからイルカさぁ、昨日の上忍待機所のことさぁ」
なんだかカンパチが泣きそうだ。イルカは友人を安心させるように笑った。
「いやだってな、前々からオレに注意されてんのに許可証とらずに本部棟出入りしたあげく未チェックの弁当差し入れだぞ?そりゃ追い出すだろ」
「ああああ〜〜、なんか今日のお前、男前だわ〜〜」
カンパチが胸の前で手を組んだ。
「もーね、オレは全面的にイルカを指示してます。お前のやったことは正しい。っつか、オレら全員がビビって出来なかったことをやってくれたお前を尊敬こそすれディスろうなんて微塵も思わねぇ。受付職員、及びアカデミー職員一同、お前の勇気と行動力を讃えている」
イルカはカンパチも正義感が強く筋を通すタイプだと知っている。受付を兼務するアカデミー職員はそういう人間が多い。なのにそのカンパチ達がビビって筋を通せないとは、いったいアレは誰の女なのだ。
「アカデミーと受付の連中は皆、知ってる。美人だがあの女はタチが悪ぃ。したたかでイヤな奴だ。でもね、でもね、イルカ君」
わぁん、とカンパチは泣いた。
「あの女、ツユクサははたけ上忍の第二夫人じゃねーかよぉ。お前、正妻が本格的に第二夫人を追い出しにかかってるって大騒ぎになってる」
「はぁ?」
「昨日もはたけ上忍、ホントは第二夫人のとこいく予定だったんだろ?それを正妻が三代目動かして邪魔したって」
元凶はあのカカシの野郎か!
っつか、女の趣味、悪っ!
唖然とするイルカの肩をカンパチはつかんだ。
「もーさ、もーさ、あの女、あちこちに泣きついたらしくてさ、同情かいまくって、ほら、一見しとやかそうじゃん。世間はアレをすげーいい奥さんだって思ってっから、いつも正妻に気を使って控えめにしてるのに虐められて、ツユクサさん、可哀想、はたけ上忍はもっとツユクサさんを守ってあげなきゃって」
イルカはさっきのくノ一達の態度に得心した。要するに、イルカは健気な女性をいじめた悪い中忍ということなのだ。
「あんのクソ上忍がぁぁ」
怒りのオーラが吹き出す。あわあわとカンパチが慌てた。
「待て待てイルカ、落ち着け」
パタパタと肩を叩く。
「ここだけの話、オレもはたけ上忍が悪いと思う。それを許す大蛇丸様はもっと悪いと思う。でもな、イルカ、世間ってぇのはどうやったって女の方に同情するもんなんだ。はたけ上忍の威光を笠に着て里の規律を無視しやがるアレは大迷惑なんだけど、世間はそんなこと、知りゃしねぇ。どうやったってお前が悪者に見えるんだ」
むぅぅ、とイルカは唸った。少々マズったと思う。こういう状況、自分ならば別に問題ない。元々短気で喧嘩っ早いイルカだ。降りかかる火の粉は弾き返すし喧嘩なら返り討ちにする。しかも歴戦の事務方だ。上忍など腕っ節でかなわない相手ならば裏に回っていくらでも潰すやり方を持っている。だがそれは三十も半ばの、修羅場をくぐってきた自分だからやれることであって、こっちのイルカはどうだろう。今までの様子からみると、随分と一人で我慢するタイプのようだ。今までもそのツユクサに遠慮してきたのではないか。
ふと、三代目の悪戯っぽい笑みが浮かんだ。
『やりたいようにやるがよい』
やりたいように、なぁ…
こっちのイルカだったらどうだろう。きっと一人で我慢して、誰に何を言われても微笑んでしっかり仕事をこなして、多分そうだろう。一人で我慢して誰にも頼らず文句も言わず弁解すらしない。三代目の話や友人、知人の反応から慮るにこっちのイルカは頑なに一人で立っているのだろう。
いやもうこっちのオレ、ダメダメじゃねーかっ。
一見、潔さそうに見えるがただのバカだとイルカは思う。世の中、そんな甘くない。己の矜持と正義を守りたいなら人は戦わなければならないのだ。イルカの場合は喧嘩だが。
どうもこっちのオレ、歯車が悪い方向に回っちまってるな…
確かに、自分は一人勝手にぐるぐると悩んで何もかも抱え込む傾向がある。それをぶち壊して側にいてくれたのがカカシだ。カカシとともに歩むと決めた時にイルカは腹をくくった。十年前がおそらくイルカの転機だった。
じゃあこっちのオレはどうなのだろう。
イルカが転機を迎えた十年前と同じ年齢のこっちの自分、カカシにはイルカ以外に女性がおりそれを容認している自分、カカシが自分のアパートに泊まる時には彼のために料理をしひたすら居心地のいい空間を作る自分、そしてカカシが女性のところへ行ってしまうと冷蔵庫は空っぽになるのだ。
「やってられっか」
イルカは呟いた。イルカ自身が変わるしかないのだ。でなければ状況は変わらず助けてくれる人間はいない。カカシにいたっては絶望的だ。
「そっか、こっちのオレが変わる転機はこのオレか…」
だったらもうやりたいようにやるしかない。おそらく三代目はわかっているのだろう。
オレの存在が吉と出るか凶と出るか、それはここへ戻ってきた時のお前次第だ。
イルカの世界に飛ばされているであろうこっちの若いイルカに向かって呼びかける。
ひと暴れしてやっから頑張れよ、こっちのオレ。
「しゃあねぇなぁ」
ドスの効いた声が事務室に響いた。
「オレも男だ。世間様とやらが喧嘩売るっつーなら買うしかねぇよな」
「えっ、ええ?イイイイルカ?」
カンパチがオロオロする。
「どっどっどうし…」
「カンパチ、心配すんな。手荒なこたぁしねぇよ」
ニタリ、と笑えばカンパチの鳶色の目が大きく見開かれる。イルカはスィっと鼻の傷を親指でこすった。気合いが入った時のイルカの癖だ。
「とにかく、あのクソ上忍を何とかしねぇと」
「イッイルカァ」
カンパチが半泣きだ。
「なななんか今日のお前、男前すぎない?」
「オレはいつもどおりだ」
バシン、とカンパチの背中を叩く。
「お前、どの世界でも良い奴だな」
「へ?」
「なんでもねぇよ」
ヒラヒラと手を振って事務室を出ようとすればカンパチは慌てて止めてきた。
「いや、今日は中で書類仕事したほうがよくね?さっきもくノ一が嫌がらせしてきたじゃん」
「あぁ、ありゃ嫌がらせだったんだな」
ななめ後ろに顔を傾けイルカは笑った。
「明日になったからってなくなるもんでもなかろう?だったら正面から行くさ」
片手を上げる。
「カンパチ、心配してくれてありがとな」
それだけ言うと事務室から受付へ出ていった。その背中は堂々として揺るぎなく威厳さえ漂う。当然かもしれない。若いイルカに?化はしているがその背中は六代目とともに各国の大名や他里の重鎮と渡り合ってきた火影補佐官のものなのだ。
「……イルカ、カッコいい」
ぽそっとつぶやいたカンパチに他の事務職員達が同意した。そう、事務室には当然、何人も職員が詰めていて今のやりとりを見ていた。
「なんか、今までのうみの中忍から脱皮したっていうか」
「ほぼほぼ別人?」
「皮剥いだら別なの、出てくんじゃないの?」
「カッケー、マジカッケーっすよ、うみの中忍」
最後に目をキラキラさせてイルカの出ていったドアを見つめたのは今年入ったばかりの新人君だ。昨日の朝までの、顔色が悪くどこか諦めに満ちた目のうみのイルカを思い出し、皆が首を捻っていた。
〜中略〜
諦念のイルカ先生がやってきた、の巻
「酷いっ、六代目様、酷すぎるっ」
「人でなしっ」
「カカシ先生、サイッテー」
「ゲスだな」
「イルカ先生が可哀想だってばよ」
「だからーーっ、それ、オレじゃないからーーーっ」
アカデミーの職員室に悲鳴と怒号が満ちる。もうとっくに正月は終わり、三学期も半ば、学年末テストと卒業試験の準備におわれて忙しいはずの職員室では業務が完全にストップしていた。
「というか君達ね、いくら子供達が下校してるからって誰が来るかわかんない職員室でそーゆー人聞きの悪いこと、言わないでくれる?」
悲鳴をあげているのは六代目火影、はたけカカシただ一人だ。後は非難の声ばかり。
「何度も言うけど、それはオレじゃないのーーっ」
この世界のイルカと是清がパラレルワールドに飛ばされて一ヶ月と数日たっていた。
七年前、カカシが巡った四つの世界から入れ替わりにその世界の「イルカ」がやってきたが、一番長く滞在したのがカカシの両親が生きている世界のイルカだった。その世界ではイルカの両親も生きていた。おそらく、イルカも居心地がよくて長居しているのだろう。カカシがそうだったから気持ちはよくわかる。
両親も四代目も生きていたあの世界ではイルカとカカシはただの知り合いだった。しかもイルカに彼女までいた。二人の間に割り込むため手段を選ばずカカシはがんばったものだ。
七年後に再会したイルカは、無事に向こうのカカシとくっついたとかで、近々五代目火影に就任するカカシの補佐官になると張り切っていた。皆から「爽やか好青年イルカ」とアダ名されたイルカはこの世界で補佐官の仕事を色々と学び、結構異世界滞在を楽しんでいたと思う。一緒にやってきた『怖い是清』もやりたい放題して受付職員達を恐怖のどん底に叩き込んでいた。
一ヶ月の滞在の後、元の世界へ帰っていったのがつい先程、昼食時を少し過ぎた時間だ。そして、さぁ今度こそ本当にこの世界のイルカと是清が帰ってくるぞと期待していたというのに、カカシのイルカはまた別などこかへ飛ばされたらしい。そしてアカデミーの職員室に年若いイルカが現れたとテンゾウから報告があったのだ。先輩、落ち着いて聞いてください、という前置きとともに。
『向こうの世界の先輩がイルカさんと女、堂々と二股かけてるそうです。正妻と第二夫人とか言って一週間交代で先輩が通ってるんだとか、あ、先輩、じゃなかった、六代目、しっかりしてください、お気を確かに〜』
お気を確かになど出来るわけがない。あまりに衝撃に椅子に崩れ落ちたカカシはしばらく放心していた。それがいけなかった。つまり、出遅れたのだ。
職員室に駆けつけるとすでに中ではイルカを囲んで野次馬がワイワイやっている。
「え、じゃあイルカ、五月で二十六なわけ?へぇ、イルカの世界じゃ今日は五月二日なんだ」
「こっちはもうすぐバレンタインだよー」
「若いー、補佐官殿、若いー」
「今は教頭先生だぞ」
「まだ六代目様のお手伝いなさってるからどうしても補佐官殿が抜けないんですよね」
新米教師からベテランまで集まって騒いでいる。
「こっちのオレって火影様の補佐官だったんですか?」
イルカの声がした。若い声だ。
「そう、六代目就任からずっと補佐官で主に外交担当してた」
「各国のお偉方とやりあって凄かったですよね」
「そうそう、にっこり笑って柔らかく、でも裏に回ったらすげー怖い、みたいな補佐官殿だった」
「……そうなんですか」
どうやらこっちの世界についての説明が主で案外普通の会話だ。ドアの外でカカシはホッと胸をなでおろした。テンゾウの報告にあった二股関係の不穏な話題はできれば二人きりで執務室で聞きたい。というか、絶対そのほうがいい。職員室のドアに手をかけた時、教え子の声がした。
「なんか、若いイルカ先生、顔色悪いってばよ」
「先生、どこか具合悪くないですか?私、ちょっと診ましょうか」
ナルトだけでなくサクラもいる。
「確かに元気がないな。先生、悩みでもあるのか」
ええ?サスケ?いつ帰ってきたのサスケ、先生に帰還報告は?っつかお前、相変わらずイルカ先生には甘いのね。
カカシはドアを開ける手を少し止めた。七班の部下達はあれこれイルカの心配をしている。別世界のイルカと成長した教え子達とのふれあいは聞いていて微笑ましい。イルカの声がした。
「いや、最近仕事がたてこんで疲れているだけだ。心配ないよ。ありがとう」
遠慮がちな物言い、これは相当拗らせているようだ。そろそろ連れ出して執務室で詳しい話を、と中へ入ろうとした時だ。聞き慣れた声がした。
「お前ら、このイルカはな、そりゃあすげー悩んでるんだ。顔色も悪くなる」
げっ
この声はイルカの悪友、カンパチだ。昔なじみのこの男、心底お人好しなのだが思ったことをためらいなく口に出すところがある。嫌な予感がした。カカシはガラリと職員室の引き戸を開けた。とにかくカンパチを黙らせた方が…
「このイルカの世界の六代目はな、イルカと女、二股かけてんだ。しかも一週間交代の通い婚とか、マジありえねぇだろ」
遅かった…
部屋の真ん中の椅子に座るイルカと周りを取り囲む職員達に部下三人、その目がいっせいにドアを開けたカカシに注がれる。
そして先程の騒ぎとなったのだ。
「だーかーらー、お前達も知ってるでしょ。オレはイルカ先生一筋じゃないのっ」
とうとうカカシは叫んだ。
「このオレが一瞬たりともイルカ先生から気を逸らしたことがあるかーーーっ」
イルカが目を見開きカカシを凝視した。
「あ…」
流石にこれはマズかったか、カカシはちょっと焦った。六代目の威厳と年上の余裕をもってイルカの話を聞いてやろうと思っていたのに、これじゃあただの執着心に満ちたおっさんだ。
「あ〜、いや、そのぉ〜」
もごもごしていれば外野がうんうんと頷いた。
「ですよねー、昔っから木ノ葉のバカップル代表でしたもんね、六代目様は」
「イルカ先生べったりだってばよ」
「時折、イルカ先生が気の毒になる」
「両思いじゃなかったらただのストーカーよね」
「……君達、優しさってなんだろうね…」
皆の言いたい放題にワッとカカシが顔を覆えば、ぽつりと声が落ちた。
「この世界のカカシさんにはオレだけなんですね」
大きな声ではない。だがその悲痛な響きに職員室はシン、と静まり返った。イルカが微かに笑う。
「そうか、そういう世界もあるのか…」
ただただ悲痛だった。身の内に押し込めていた苦悩や絶望が一瞬だけ顔をのぞかせた、そんな笑顔だった。息を飲んで皆が黙り込む中、いち早く我に返ったのはカカシだった。膝をついてガバッとイルカの両手を包み込む。
「イイイイルカ先生っ」
手を握ったはいいが、何と言っていいのかわからない。
「あのっ、イルカ先生っ」
「元気だしてください、イルカ先生っ」
どごっ、とサクラに跳ね飛ばされた。膝をついてサクラがイルカの手を握っている。
「そうだってばよ、イルカ先生」
ナルトがやはり膝をつき手を重ねた。
「アンタは悪くない、イルカ先生」
隣に膝をついたサスケは黒いマントの下から手を伸ばしその上に重ねる。
「カカシ先生なんか捨てちゃいましょう」
「もっと良い人がいるってばよ」
「そうだ、カカシを捨ててのりかえた方がいい」
「こらー、君達ーーっ」
妙なところでチームワークの良さを発揮する元七班だった。
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