ツチグモに故郷はない。
岩隠れの里に住んではいるが、そこはツチグモの故郷ではない。
生まれた時から岩隠れの底辺にいる一族として蔑みを受けてきた。
ツチグモの一族は祖父の代に故郷を失った。流れついた先が岩隠れの里だ。里の重鎮の一人が彼の一族を保護下に置いた。里に住む許可を与える代わりに彼への忠誠を誓わされた。
だから忍びの技を使えても岩隠れの忍びとして扱われない。
どんなに優秀でも下忍にすらなれない。
蜘蛛使いの彼らはだから里人や忍び達との交流もなかった。
ツチグモの一族はただ、岩の忍びの下支えとなり、時には捨て駒となる。与えられたものを食べ、ただ生き残るために蜘蛛使いの技を磨いた。暮らしに余裕はなく、娯楽もなかった。彼らは感情を消すことで岩隠れでの生活に耐えた。
ツチグモもそうやって成長した。彼の見る世界は常に灰色で、感情の動きはわずかだった。大人達がそうであるように、ツチグモも忍びの技以外の感覚を鈍麻させることで生きていた。
その本を拾ったのは偶然だった。
十の年で戦場へ出たツチグモは、ある時木の葉の忍びを殺した。忍びの側に一冊の本が落ちていた。男と女がニコニコ笑って走っている表紙、ツチグモの生活の中では縁のない本だ。
ツチグモはその本を手に取った。丁度仲間は側にいない。ツチグモは一人、潜入任務中だ。子供は警戒されにくい。ツチグモは拾った本を懐に入れてねぐらに帰った。
その本には大人達が唯一、楽しみにしている娯楽が書いてあった。気晴らしと言って山深い村や極貧の村の女達にしていることだ。ただ、大人達が気晴らしをすると女達はひどく泣いた。なのにこの本の中の女はとても幸せだ。何故だろうとツチグモは思った。していることは一族の大人達と同じなのに、何故本の中の女は幸せなのだろう。
愛、という言葉が本の中にはたくさん出てきた。
そうか。愛、というものがたくさんあるから女は幸せなのだ。
愛とはなんだろう。愛、というもののために本の中では男がとても頑張っている。女も頑張っている。色んな困難に立ち向かっている。そして二人は幸せだ。愛とはそんなにいいものなのか。そんなに強い感情なのか。
ツチグモはその本をこっそり里へ持ち帰ることにした。
自来也という人の書いた、イチャイチャパラダイスという本だった。
ツチグモは十五になった。
一族の婚姻は早い。同じ一族の娘か極貧の村から買い取った女を妻にする習わしだ。
ツチグモの両親は優秀な蜘蛛使いだったので、ツチグモの相手は同じ蜘蛛使いの娘と決められた。
だが、ツチグモは婚姻を断った。
ぼんやりとしたツチグモの世界の中で、本にある「愛」だけが色鮮やかだ。ツチグモはその「愛」に憧れた。心を揺らす強い感情を味わいたいと思った。
女を抱く経験は何度もした。大人達が教えてくれた。それは気持ちのいいものなので、ツチグモは自分でも大人達のように女をみつけては抱くことを覚えた。だが、気持ちはいいがツチグモの世界はぼんやりとしたままだ。心を揺らす強い感情など知らない、わからない。ツチグモは「愛」に憧れる。そうしたら自分のいる灰色の世界も色鮮やかになるかもしれない。本の中のように歓喜があふれるかもしれない。ツチグモは愛に憧れた。
二十歳の時に両親は戦死した。岩隠れの忍びの捨て駒とされ、自爆技で敵陣を叩いて死んだのだ。蜘蛛使いは一度に出せる蜘蛛の数が少ない。ぽとりぽとりと少しずつしか出せないのだ。体に持っている蜘蛛を一度に放出するためには自爆技しかなかった。両親は自爆して、広範囲に全ての毒蜘蛛をばらまいて死んだ。敵を壊滅できたのに、それでもツチグモの両親が讃えられることはなかった。すべては岩隠れの忍びの手柄となった。
ツチグモは一人になった。兄弟はいない。周囲は妻を娶らせたがったが、ツチグモは断り続けた。そのうち、一族の者達もツチグモを変わり者扱いして何も言わなくなった。
三十をこしてもツチグモの世界はぼんやりと灰色のままだった。懐にあるイチャイチャパラダイスだけがツチグモに鮮やかな世界をみせてくれる。強烈な感情はこの本の中にだけ存在した。
ツチグモ、里のために死ね
そう言われた。
土影は年寄りだ。跡目争いが起こっている。ツチグモの一族を保護下においている重鎮もその争いに加わっている。ツチグモはよくわからない。ツチグモは言い渡されたことを忠実にやり遂げるだけだ。
里のために死ね
土影が心変わりしたからには火影ともども殺さなければならない。ツチグモの主はそう言った。
里のために。
だが、一流の忍びを殺すためには自爆するしか道はない。
里のために?
ツチグモに里などない。岩隠れはツチグモの里などではない。だが、言われたことはやらねばならない。
どうして火影は気づいたりしたんだろう。
どうして陰謀に気づいたんだろう。
どうして土影を説得してしまったんだろう。
土影のことなんか放っておいてくれたらツチグモは自爆しなくてすんだのに。
ツチグモは涙が出た。
まだツチグモの世界は灰色のままだ。
ツチグモは色鮮やかな世界も、強烈な感情も知らない。なのにもう死ななければならないのか。
涙が出た。
よくわからないが涙が出た。
そしてツチグモは失敗した。
自爆技は封じられ、風影の作った砂の檻に閉じ込められた。
これから木の葉の拷問部へ連れて行かれるのだ。死ぬのと同じだ。ツチグモの世界は灰色のまま終わるのだ。
ふと、銀髪の火影の顔が浮かんだ。
女装しているくせに皆に愛されている火影、火影の周りにはいつも人が集まっていた。皆がニコニコ笑っていた。火影もニコニコ笑っていた。銀髪の火影の側には黒髪の男がいて、その男はとても温かい目で火影を見つめていた。まるであの本に出てくる「恋人」のように。
黒髪の男はいつも火影に親切だった。火影のために美味しいお菓子を焼いていた。ツチグモにもそのお菓子をくれた。白いフワフワしたクリームと真っ赤なイチゴが入ったケーキ、ツチグモは生まれてはじめてケーキを食べた。一族の者達も自分も、いつも粗末なものしか食べたことがない。土影の付き人として木の葉にきても、卑しい蜘蛛使いの自分は一人離れて手持ちの食べ物を取っていた。だから土影が木の葉で食べるご馳走の味など知らない。
タンバル ド フレーズ ラ ヴァリエールでございます
黒髪の男はそういって皆にフワフワのケーキを切り分けた。ツチグモにもくれた。大きな塊を一皿もくれた。そうしてにっこりと笑った。
どうぞ、お召し上がりを
食べていいのか。
これはツチグモにくれたケーキだ。ツチグモに食べていいと男は言った。ならばこれを食べてもいいのか。
ツチグモはうつむいてそのフワフワのケーキを頬張った。甘かった。柔らかかった。白いクリームはひんやりと甘い。赤いイチゴは甘酸っぱい。
あぁそうだ、これは知っている。
幼いころの記憶が蘇った。赤いイチゴ、この味は知っている。母が一度だけ、こっそりツチグモに食べさせてくれたのだ。
偶然手に入ったからね。これはイチゴと言うの。みんなには秘密だよ?
母は優しい人だった。
そうだ、忘れていた。自分の母はツチグモにとても優しかった。アレが愛だったのか?ツチグモだけにイチゴをくれた、母はツチグモを愛していたのか。
黒髪の男は火影に優しい。いつも火影にくっついている。だったらこの黒髪の男も火影に愛を持っているのか。
いや、この男だけではない。火影は皆から愛されている。火影は愛をたくさん持っている。
ツチグモには何も持っていないのに。
男のくせにあんな変な女の格好で、女の言葉を使っているのに、火影はたくさん愛を持っている。たくさんたくさん持っている。
哀れな方
火影はツチグモにそういった。
何のために死ぬのかと。他人の欲望のために死ぬお前は哀れだといった。
どうして哀れむ。ツチグモはそうしなければ生きてはこられなかった。なのに哀れだというのか。自分はたくさんの愛を持っているからか。色鮮やかな美しい世界に住んでいるからか。イチゴとフワフワのクリームをいつだって食べられるからツチグモを哀れむのか。
哀れな方
火影の青い目がツチグモを哀れんだ。キラキラ輝く髪を持つ男は、まるで天上の住人のようにツチグモを見下ろし哀れんだ。
ふいに何かがこみ上げてきた。
ツチグモの世界は真っ赤に染まった。灰色だった世界が真紅に染まり、その真中で真っ黒が渦を巻いた。ぼんやりとしたツチグモの世界が強烈な色で染め上げられる。強烈な何かに体が震えた。
憎い。
火影が憎い。
ツチグモを哀れんだ銀髪の男が憎い。
たくさんの愛を持っている男が憎い。
憎い、憎い、憎い、憎い
殺してやりたい。
砂の檻の中でツチグモの世界にはじめて色がついた。生まれてはじめて強烈な感情を味わった。
ツチグモが生まれてはじめて抱いた強烈な感情、それは憧れていた愛とは真逆の、全身を黒く染め上げる憎しみだった。
ツチグモは人を憎むことをはじめて知った。
おわり
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