しーっ
それは魔法の言葉。
父がカカシに残した魔法。
んなもん、父君に謝れっ、クソ上忍っ。
しーっ
たてた人差し指をオレの唇に当てる。目の前の男はにこり、と優しげに目を細めた。
しーっ
外へ助けを求める叫びはそのまま喉の奥に押し込められた。銀髪の上忍は鼻の上まで覆った口布を下ろすとふんわり笑った。そして後はもう、後はもうっ…
「アレって強姦、だよな」
アカデミーの職員室、窓際の椅子でイルカはうーん、と腕を組む。
夕べのことだ。夜中、日付もかわろうかという時間に突然訪ねてきた上忍に襲われた。
「同意とかねぇし、縛られたし」
そう、同意なんてしていない。ベッドに放り投げられ部屋着をひん剥かれた段階でイルカは渾身の力で抵抗した。内勤の教師といえど中忍である。戦忍あがりだしガタイもいい成人男性、どっちかというとゴツい系男子である。そんなイルカの抵抗をあの上忍はあっさり封じた。
『暴れると親指、千切れちゃうよ?』
気づけば両親指が鋼糸で一纏めにされていた。しかもその鋼糸、ほんのり青白く光っている。
チャクラの流し込まれた鋼糸、何度か火影の忍具室で見たことがある。これはアレだ、ほんのわずかの抵抗にも自動的に反応するという取り扱い危険度MAXなハイクラス忍具ではなかろうか。
一瞬で敵部隊全員の首が落ちたとか全身をバラバラにしたとか扱い慣れない忍びが自分の手を細切れにしてしまったとか、とにかく恐ろしい噂がてんこ盛りで、ごく一部の技量の高い忍びにしか使いこなせない危険な忍具だ。そんな高級忍具が今、イルカの両親指に巻き付いている。
ざぁっと血の気が引いた。今、自分を組み敷いているこの忍びは、技量が高いどころか里一番の業師と呼ばれる男なのだ。そんな男に鋼糸を巻かれた。暴れたら本当に自分は親指を失うだろう。真っ青になったイルカの頬を上忍は優しく撫でた。
『ね?』
ね?じゃねーよっ
思わず心の叫びをあげる。
そんな高級忍具、オレに使う?
しかも目的は明らかに『強姦』。
ここはもう、男のプライドとか言っている場合じゃない。体が動かせなくても声は出る。幸いイルカの住むこのボロアパート、壁が薄い。教師という職業柄、声は大きくよく通る。助けを求める叫びをイルカはあげようと息を吸い込んだ。
そして最初に戻る。
『しーっ』
あろうことかこの上忍、イルカの唇に人差し指をあててそう言ったのだ。
『しーっ』
上忍は口布を下ろし額当てをむしり取った。現れたのはとんでもなく端正な、まさに花のかんばせ。唖然と見つめ、そのうちアレコレされてわけがわからなくなった。
イルカを襲った銀髪の上忍、二つ名はコピー忍者写輪眼のカカシ、本名をはたけカカシという。
そして不本意ながらアレコレされたのはうみのイルカ、アカデミー教師と受付事務を兼任しているいたって普通の中忍だ。もちろん、二つ名などない。
「うがぁ」
夕べのことがまざまざと蘇りイルカは頭を抱えて唸った。カカシは乱暴なことは何一つしなかった。そりゃあ高級鋼糸で親指は拘束されていたが、それ以外は丁寧なものだ。
『可愛い』
何度もそう囁いてきた。
『イルカ先生、可愛い』
「いや、マジないわー」
『可愛い』
ありえない評価だ。それは自分が一番よく知っている。
イルカは不細工ではないが美形でもない。ごくごく平凡な顔立ちだ。目が大きいとは言われるが、可愛いという意味では決してない。しかも顔の真ん中、鼻の上には一文字の傷がある。目立つ傷痕で容姿の説明をされる時にはいつも『あの顔に一文字の傷のある人』と言われることが多い。
独り者の野郎にしては清潔さを心がけているのは教師と受付という職業柄、人相手の仕事だからで、本来はズボラな質だ。髪を頭のてっぺんで一つ括りにしているのは子供の頃からの髪型を今更変えるのが面倒くさいだけだし、部屋着は木ノ葉マートの特売スウェット上下、身長だってはたけカカシと似たようなもので体型にいたってはカカシよりもずんぐりむっくりな、要はモサい男である。どこをどうやったら『可愛い』などという形容詞が出てくるのか。
「ないないないない、ゼッテーにないっ」
「何がないんだ?」
ぽこっと後頭部に軽い衝撃が来た。
「っつか仕事しろイルカ、新学期早々なにサボってる」
「ヒラマサかよ」
後ろを向けば茶髪癖っ毛の同僚、鱸ヒラマサが仁王立ちしていた。右手に丸めた職員会議用資料を持っているが、さっきの衝撃はそれだろう。イルカはじとりと友人を見上げた。
「……サボってないし」
「サボってっだろが」
「春を感じていた…」
ぽこっと再び丸めた資料ではたかれた。このヒラマサという同僚、イルカの幼馴染であるから遠慮がない。
「ごっつい男が何寝ぼけたこと言ってんだ」
「……ごっつい…よな」
「あ?」
「だからオレ、ごっつい男だよな…?」
むむむ、とイルカは再び唸る。
「えーっと」
ヒラマサはイルカの目の前で手をヒラヒラさせた。
「うみのイルカ先生?」
「二十代後半の成人男子だもんな、こないだなんかオレ、女生徒からイルカゴリラって言われたし」
「え、そうなの?」
「そうなの」
うむうむとイルカは頷く。ヒラマサはどことなく気の毒そうな顔になった。
「そりゃあ…まぁ、子供の言うことだし、あんま気にすること…」
「イルカゴリラだ、ヒラマサ、イルカゴリラ」
「はぁ」
「そこに可愛い要素、あるか?」
「ない」
即答だ。
「だよなぁ」
イルカはむむむ、とまた考え込む。ヒラマサはぽかんとなった。
「え、なに?お前、可愛くなりたいわけ?」
「んなわけあるか」
「じゃあ何」
むむむむ、とイルカはただ唸る。
と、ヒラマサが窓の外を指差した。
「あ、はたけ上忍だ」
ビクリとイルカは肩を揺らした。見れば植え込みごしに本部棟へつながる小道を歩く銀髪の上忍の姿が見える。ほぇ〜っとヒラマサがため息をついた。
「いいよなぁ、相変わらずのモテモテで」
何人もの若いくノ一がカカシを取り囲むようにしてまとわりついていた。カカシは気にする風もなくのんびりと歩いているのだが、その周囲はかしましい。
「最近、はたけ上忍のモテっぷり、凄えよな」
イルカはぼんやりとカカシを眺める。ヒラマサが首を振った。
「アレだ、三代目が亡くなってから五代目が就任するまで、火影代理みたく動いてたの、はたけ上忍じゃん。任務の合間に里を巡って結構皆に声かけてさぁ、相談のったり細かい手配したり、ジジババの話し相手までしてたって。暗部で雲の上の忍って近寄りがたかったのが一挙に親近感?ギャップ萌えって奴?特に女性がさ」
そうなのだ。三代目亡き後の里の復興を支えたのはカカシだった。ご意見番二人がいるにはいたが里人や忍び達と親しく言葉を交わすタイプではないし実務に疎い。結局現場を知っていて統率力のあるカカシが指揮をとった。イルカも度々、任務帰りの格好のまま里人の話を聞く姿を見かけたものだ。
「みーんなはたけ上忍に感謝してんだよ。うちはの子が里抜けした時もさ、はたけ上忍の足引っ張った連中の方が袋叩きにあったしさ」
サスケが里抜けした時、上層部を含め一部の者達がカカシを厳しく糾弾した。就任後まもない五代目にはまだ力がなく、カカシは黙ってそれらを受け入れ黙々と任務に励んだ。懲罰として過酷なスケジュールを組まれていたし、上忍降格の話まで飛び出していたのだ。
「五代目の足引っ張る連中も多かったし、カカシさんが盾になってたよな」
「そりゃ皆、はたけ上忍の味方するって。降格言い出した連中とか、今は飛ばされてんだろ?調子ぶっこいて悪口言い立てた連中もいたじゃん、アイツら、小さくなってやがんの」
ざまぁ、とヒラマサは笑った。
「ま、そうでなくてもカッコいいもんな、あの人。モテるはずだわー」
うんうんと頷くヒラマサにイルカは曖昧な笑みを浮かべた。
そうだ、カカシはモテる。女だけではなく男にも。里一番の忍びであり次期火影の呼び声も高く見目が良くて人徳もあるとなったら放っておけという方が無理な話だ。立派な人だとイルカも思う。
そんな人が何故…
「なぁなぁイルカ、はたけ上忍ってマジでイケメンなのかな。お前さ、七班つながりで話す機会もあったんだろ?顔、見たことねぇの?」
突然の爆弾だった。ボン、と顔が熱を持つ。
「あっあっあるわけねぇだろ、そんな顔とかっ」
見ましたとも、夕べ間近で花のかんばせを!
昨日の感覚が全身に蘇りイルカはごしごし頬をこすった。
「七班つながりつったって挨拶する程度だったしっ、ナルトが修行の旅に出ちまってからは繋がりとかなくなったし」
「ま、そうだわな」
ヒラマサは友人の動揺には気づいていないようで、呑気に笑った。
「所詮、オレら凡人には雲の上のお人ってわけだ」
ぽこぽことイルカの頭を丸めた資料で叩いた。
「さーイルカ君、仕事だ仕事。新学期の五代目学校訪問、明後日だぞ」
「おっおぅ」
そうだ、あれはカカシの気まぐれだろう。何故そんな気まぐれを起こしたのかさっぱりわからんが、とにかく突発的事故だ。
忘れよ…
ぶんぶんとイルカは頭を振った。
オレぁ男だし減るもんじゃねぇし
今更バックバージンがどうのと大騒ぎするほどウブでもなければ繊細でもない。そりゃあ初めての体験だったが、そして合意なしの明らか『強姦』であったが、優しくしてくれたからそれでよしとしよう。戦場じゃ下位の忍びはモノ扱い、下忍の頃は酷い扱いをされた同期も多くいた。イルカが無事だったのは今にして思えば三代目の目が光っていたからなのだろう。
じいちゃん…
今は亡き三代目を思い出してちょっと泣きそうになった。
いや、じいちゃん、オレ大丈夫だし、もう大人だし!
「忘れよ」
今度は自分に言い聞かせるようにイルカは呟いた。さんさんと降り注ぐ四月の陽光に目を細め、イルカは頭の中からカカシを追い出した。机の上には仕事の書類、ここにはイルカの日常がある。そう、それでいいのだ。植え込みの向こうにいたカカシもくノ一達もとうの昔に歩み去っていて、春の陽射しの中、ぽかりと誰もいない空間がある。もやもやした気分を振り払い、思考を仕事に切り替えた。
単なる気まぐれ。
それは当たっていたようだ。その日の夜は静かなものだった。
翌日の五代目アカデミー訪問は無事に終わり、夜の懇親会も楽しいものだった。宴が始まってすぐ、上忍師だったアスマ、紅、カカシに同僚達と挨拶に行ったが、カカシの態度は拍子抜けするほど普段と変わりなかった。イルカは少し複雑だ。だが、上忍から手酷く扱われた話も多い中、あの程度ですんだ自分は幸運だろう。
忘れればいいんだし…
そうだ、カカシにとってアレは一時の気の迷い、というか、興味本位で手を出してみたのだろう。いい年した中忍が一々騒ぎ立てるのもみっともない。いくら木ノ葉がリベラルな里だからといって、やはり縦社会であることには変わりはないのだ。
宴がすすむにつれ、カカシの周囲には人だかりが増えた。こういう席には滅多に参加しないカカシがいるので皆、テンションが上がりまくっている。くノ一の間ではカカシの隣と向かいに座るための争いが水面下で勃発しているし、下心満載で酌をしにいっている男どもも群がっていた。アカデミー職員達が酌をする余地など皆無だ。
「すげーな、はたけ上忍の人気」
ヒラマサがぼそっとイルカに囁いた。あぁ、とイルカも頷く。
「人気者ってのも不便だな」
ゆっくり酒も飲めないのは気の毒だ。
「道理で普段、参加しねぇわけだ」
そう言いつつカカシをみやれば、丁度目をあげたカカシの視線とぶつかった。一瞬顔が強張るが失礼にならないよう会釈する。ギロ、と周辺のくノ一に睨まれた。イルカは慌てて視線をそらす。
「お〜〜怖」
ヒラマサが首を縮めてみせた。イルカも苦笑した。
これでオシマイ。
いつまでも気にしている自分がおかしいのだ。友人や同僚達と楽しく酒を飲めばいい。ワイワイやっているうちに気分も上がり、宴がお開きになった頃には陽気な酔っぱらいの一人になっていた。チラリと目の端にとらえたカカシの周囲には相変わらず女性が群がっている。
これからお持ち帰りってとこか?
イルカはこっそり安堵の息を吐いた。もう気まぐれを起こすこともないし縁もないだろう。
「んじゃまた明日なー」
同僚達に手を振りイルカは自宅への道をたどった。四月のはじめ、夜風はまだ冷たいが酔いに火照った体には心地よい。少し欠けた月がぽかりと夜空に浮かんでいる。
キレーなお月様〜
イルカはぽやん、と月を見上げた。襲われたあの夜からこの二日、重苦しい気分だったが、なんだか今夜、女性に囲まれるカカシをみて安心した。あれだけ選り取りみどりなのだ。ちょっとした気まぐれのとばっちりを受けてしまったが、今後はもう関わることもあるまい。このまま日常が戻ってくる。ほぅっとイルカは深呼吸した。その時、青白い月明かりにキラリと何かが光った。
銀色?
ギクリ、と体が強張る。気配はない。だからこそ恐ろしい。
まさか、でもさっき確かに女達に囲まれて…
混乱するままイルカは目の前の闇を凝視した。影から抜け出るようにのっそりと銀髪の長身が姿をあらわす。
「こーんばーんは」
ひゅっとイルカは息を飲んだ。銀髪の男はニコリ、と目を三日月の形にした。優しげな笑み。
「イルカせーんせ」
弾かれたようにイルカは駆け出した。
ヤバイヤバイヤバイッ
言い知れぬ恐怖が体の奥から突き上げてくる。闇雲にイルカは足を動かした。自分がどこへ逃げているのかも定かではない。ただ逃げなければと必死だった。
逃げないと、逃げないと、逃げないと、でないと
「ぶはっ」
何か固いものに鼻面をぶつけた。動けない。ガッチリと何かが体を拘束している。
「せーんせ」
柔らかい声が落ちてきた。
「ふふ、外でしたいの?」
覗き込んでくる青い瞳、口布を下ろしあらわになった綺麗な顔。
「カ…カカ…シさ…」
「なぁに?」
優しく細められる右目、イルカは動けない。カカシの腕がイルカの体にまわされている。冷たくて固くて無機質なもの、まるで鋼鉄のアームに締め付けられているような、そんな圧迫感だ。
「…ひっ」
喉が震えた。目だけで周囲をうかがう。暗い。鬱蒼とした木々、ここはどこだ。いったい自分はどこへ走ってしまったのか。恐怖がせり上がってくる。怖い。怖い。誰か
「たすけ…」
悲鳴をあげようとした。つっと唇を押さえられる。
「しーっ」
柔らかく細められる目、呆然とイルカはその目を見つめた。
「しーっ」
とさり、と背中に軽く衝撃が来る。草の匂い、土の匂い、押し倒されたのだ。チリ、と首筋に痛みが走った。
噛まれた?頬になんかふわふわ当たってる?
カカシの髪が頬にあたるほど抱きしめられているのだと今更ながらイルカは悟った。混乱したままの頭はうまく回らない。首筋に顔を埋めたまま、くっ、とカカシが喉を鳴らした。
「震えてるね、センセ」
かーわい、と耳元で囁かれカァっと頭に血が上った。
ふっ震えてなんかっ…
強姦されて腹が立った。人を無理やりヤっといて悪びれもしない態度に物凄く腹が立っていた。だけど宴会でイルカに関心を向けないカカシに安堵した。腹が立っていたのにカカシの無関心に安心した。何故だ。
怖かったから…?
そうだ、イルカはカカシが怖かった。恐怖したから逃げ出した。助けて、と叫ぼうとした。怖かったからだ。その恐怖を見透かされて笑われた。
「バッバカにっ…」
ブン、と拳を横に振り抜く。
「するなっ」
パシン、と渇いた音がした。のしかかるカカシの脇腹めがけた拳は簡単に受け止められている。ゆっくりとカカシが体を起こした。片手と肩を押さえ込んだ男はニィっと笑う。
「いいねぇ。今日は縛らないでいてあげる」
楽しそうに肩を揺らした。
「外だしね、暴れていーいよ?抵抗して?でも」
スッと唇に人差し指があてられる。
「悲鳴は上げないでね?オレ、五月蝿いの嫌いなのよ」
「なっ…」
「出来るよね?忍者でしょ?」
カカシは無邪気に小首をかしげた。
「ね?」
怒りで目の前が真っ赤に染まる。
「殺してやるっ」
理性など吹っ飛んだ。太腿につけたポーチから抜き出したクナイをカカシめがけて突き立てる。突き立てたと思った。
「ふふ」
指二本、カカシの左手の人差し指と中指がクナイの刃を挟んでいた。どんなに力をこめても動かせない。
「かぁわいいなぁ」
右手の手甲を口で引っ張って外したカカシは同時に指で挟んだクナイも放り投げる。あまりに桁違いの実力差、ただ、馬乗りになられているだけなのにイルカは動けなかった。
「ん?もう抵抗しないの?」
〜中略〜
最後は意識が飛んでいた。そこまで好き勝手したのなら、最後まで放り投げていてくれればいいのに、ふと気がつくとサラサラの清潔なシーツにくるまれていた。肌も拭き清められていて、後ろも気持ち悪くはなかった。後処理をしてくれたらしい。目を覚ましたイルカに気づくとカカシは柔らかく微笑んだ。
『センセ、少しお腹に入れようか』
ベッドの上にクッションを置いて優しい手つきでイルカの体をもたれかけさせた。何かをすくってスプーンで口元に持ってきた。拒否しようとすると少し困った顔で微笑まれた。
『センセ』
優しい声にうっかり口を開けてしまった。温かい野菜スープが喉をすべり落ちていく。正直、美味かった。ついつい、与えられるままに口を開けて、結局全部飲んでしまった。
『まだ飲む?』
こくりと頷けばカカシはまた微笑んで、おかわりを持ってきてくれて…
「うがぁぁぁ」
イルカは頭をかきむしった。
なんだアレ
なんだってんだ!
アレは勝手な強姦魔じゃないかっ
っつか、スープおかわりするってオレぁバカかぁっ
「オレのバカーーーッ」
「何やってんの、お前」
「バカバカバ…あ?」
教師仲間で友人のヒラマサが怪訝な顔で立っている。
「あ〜、えぇっと〜」
えへ、とイルカは笑った。
「ヒラマサ君、あのぅ、どこから…」
「オレのバカーって」
「ははは…」
がくりと肩を落とすイルカの横にヒラマサが座った。
「うみの氏、何かありましたかな?」
友人はカンがいい。
「………」
横目で見ればヒラマサはちょん、と座ったまま動く気配はない。
っつか仕事しろよヒラマサ
自分のことは棚に上げてイルカはヒラマサを睨んだ。だが、睨まれたからといって仕事に戻る気はさらさらないようで、ヒラマサはじーっとイルカを見つめている。
「その様子、色恋沙汰とみるがうみの氏、いかが?」
ほんっとーにカンがいい。この気のいい友達はイルカが相談したら真剣に考えてくれるだろう。それでもカカシに強姦されて気持ちよくなっちゃいました、何故でしょうなんて口が裂けても言えない。だがしかし、一人でグルグルしていても道は見えないし、だが、だが、
「あっあのさぁ、ヒラマサ」
「おう」
言えない、口が裂けても言えない。
「レッレイプ系AVのオススメってある?」
オレのバカー!
「あっ、いや、いいんだ、忘れてく」
「イルカァ」
ニタァ、とヒラマサが悪い笑顔になった。
「やっぱお前、こないだのAV鑑賞会、来たかったんだな〜」
「えっ」
「なんだよなんだよ、このムッツリめぇ」
ウリウリ、とヒラマサが肘でつついてくる。そう言えば一ヶ月ほど前、年度末試験が終わった打ち上げ鑑賞会と称してヒラマサのアパートに同僚やら受付事務やらが集まったのだ。どうにも皆でそういうものを観るのが苦手なイルカはいつも断っているのだが、今はヒラマサが勝手に勘違いしてくれて助かった。
「うみの氏、ありますよありますよ、名品珍品、揃ってますぜ旦那ぁ」
ヒラマサはニマニマしながら膝をすすめてくる。
「今週末にでも鑑賞会する?トリモチとかタニシも呼んでさ、なになに?やっぱレイプもの?人妻レイプとロリ巨乳レイプ、どっちがお好み?」
「きょっ巨乳っ…かなっ」
「鼻血吹いちゃダメよ、うみの氏」
「だだだったら人妻レイプ…?」
「おすすめはさぁ、緊縛道具責め熟れた体っつー熟女モノでこないだも…」
「不潔ーーーっ」
ドゴン、と頭を何かが直撃してイルカは床にひっくり返った。分厚い『忍者アカデミー年鑑』が頭の横に落ちている。
よく死ななかったな、オレ!
イルカの横にはヒラマサがひっくり返っていた。こっちは『忍具辞典』の直撃を受けたらしい。
「不潔だわっ」
「男ってコレだからっ」
「ヤダ、職員室で不潔よ不潔っ」
いつの間に入ってきていたのか、女子職員三人が仁王立ちしていた。
「いいいや、ちっ違います違うんです」
慌ててイルカとヒラマサは体を起こす。
「はぁ〜?」
だが女子職員達はゲロを見るような目でこっちを見下ろした。先輩教員の七草ナズナがフン、と口元を歪める。細面美人がそんな顔をするととても怖い。
「サイッテーね。アンタ達、強姦願望とかあるわけ?」
「あっありませんっ」
「あくまでフィクションですっ、男の夢ですっ」
「はぁ?夢ぇ?」
「バカ、ヒラマサ」
墓穴発言した友の頭をイルカは殴った。だがもう遅い。若い後輩教師二人がドン引きしている。
「男の夢って、信じらんなーい」
「サイッテーサイッテー、レイプされて快感とかありえないから」
「気持ち悪いだけですよっ、先輩達、サイッテー」
「でででですよね、仰る通りです」
へへへー、と男二人は土下座した。年長のナズナが冷たい目でみおろしてくる。
「いい?」
細面で華奢な美人教師だが中身は誰よりも恐ろしい。それを熟知しているイルカとヒラマサは床の上に自主的正座だ。
「レイプに未来なんかないからね。されたら相手を憎むだけよ。快感なんて精神的なものが大きいんだから以ての外よ」
「はははいっ、わかっております」
再びヒラマサが土下座した。密かに好意を寄せているナズナにAV話を聞かれてダメージを食らっているのがわかる。
「ですよね、ありえないですよね」
イルカも土下座した。
「「申し訳ございませんーーーっ」」
女子職員の糾弾を受けながらイルカはカカシのことを考える。
そうだ、ありえない。オレはカカシを憎んでいる。だってあれは強姦だ。はたけカカシは人非人だ。オレは無理やり犯されたんだ。
何度もそう心のなかで呟くのに、いっこうに憎しみがわいてこないのがかえって辛かった。
「こーんばんは」
その夜、窓から侵入してきた銀髪をイルカは黙って見上げた。口布を下ろしながら銀髪の男はわずかに首をかしげる。
「あれ、今日は大人しいね?」
「オレが騒いだところで好きにするんでしょう?」
睨みつければふんわり微笑まれた。
「うん」
腹立つーっ
いけしゃあしゃあと「うん」だとぉ?
イルカは内心ギリギリと歯噛みする。
だが見てろよ、今日のオレは一味ちがう。
昼間、ヒラマサとともに女性陣の糾弾、もとい意見を聞いたイルカは、おそらくまたやってくるであろう『上忍の権限を悪用する強姦魔』に対し毅然と対処しようと決意していた。自分は忍びという階級社会に身を置いてはいるが、自立した一個人でもあるのだ。冷静に拒絶し、それでも無理を強いられたらしかるべきところへ訴えてやる。大声をあげて周囲に助けを求めよう。初日に大声作戦が失敗したのは突然のことで気が動転していたからだ、ということにしておく。
更には気分が萎えるよう、多分あの男が萎えることはないと思うから神頼みに近いが、そろそろ雑巾にしようと思っていたグレーのヨレヨレスウェットを着た。ズボンの尻ポケットには救援要請の式も入れてある。そうしてイルカは用意周到心の準備万端でカカシを待ち構えていた。冷静に対処、そう決意していたのだ。
だが、何だこの男は。何だこの悪びれない態度は。「うん」の一言でイルカの脳みそは沸騰した。
「なーにが『うん』だぁっ、人食った顔しやがって」
銀髪の男はきょとり、と小首を傾げた。それからポン、と手を打つ。
「あ、確かに、ある意味『食う』んですもんね」
「なっなっなんだとぉっ」
キレた。元々気の短い男なのだ。
「こんのっ」
渾身の力で殴りかかった。
「ヤローっ」
「ふふ」
打ち込んだはずの拳はカカシの手の平で軽く止められた。
「懲りないねぇ」
ぺろ、と拳をなめられる。慌てて飛び退ろうとすれば腰に手をまわされた。
「ま、そこが可愛いんだけど」
ポッとカカシの右掌の上で何かが燃えた。尻ポケットを探れば救援要請の式がない。ざぁっと血の気が引いた。こうなったら大声で助けを…
「しーっ」
人差し指がイルカの唇にあてられる。ふんわりとカカシは微笑んだ。
「……あ…」
〜中略〜
「気持ちよかったねぇ」
そりゃアンタだけだろうがっ
『サイッテー』
女子職員達の声がリフレインする。本当だ。最低だ。最低だこんなヤツ。なのに、なのに…
風呂を沸かしてくれた。イルカを抱いて風呂場で綺麗にしてくれた。動けないイルカの後ろを丁寧に処理してくれた。
「あたたまっていてね」
そう言ってイルカを湯船に下ろしてくれた。
何この意味不明な優しさ!
いやいやいや、とイルカは頭を振る。当然だ。自分は強姦されたのだ。始末くらいするのが当たり前じゃないか。
「……あれ?」
だけど、フツー強姦犯ってそんなことするっけ?
「あたたまった?そろそろあがろうか」
ひょこり、と銀髪がのぞいた。横抱きにされたままバスタオルで拭われ。渇いたバスタオルでくるまれてベッドに寝かされた。シーツはさらさらだ。取り替えたのか。
「夜中に洗濯機回すと近所迷惑でしょ?予約モードで明日の七時にしておいたから忘れずに干してね?」
最近の洗濯機って便利だったんだな。オレ一回も予約モードとか使ったことない。
っつか何そのご近所への細やかな気遣い!近所気遣う前にさぁっ。
「なんかお腹に入れたほうがいいね。明日も仕事だし」
だったら三時間もスんじゃねーよ、もう夜中の一時じゃんっ。
「早めに来て正解だったねぇ」
正解ってナニ、っつか勝手に台所あさってんじゃねぇっ
「あれ、なぁんにもない。カップラーメンばっかりじゃないの」
悪いか、んなもん、オレの勝手だろうがっ
声は掠れて出ないわ腹が立つやらで一人、悪態をついていたら腕組みした銀髪がベッドサイドに仁王立ちしていた。
「イルカ先生、アンタ、食生活なってないです」
こんこんと説教された。イルカは身を縮めて謝った。
解せぬ。
「しょーがないなぁ。明日は材料持ってきてあげる」
は?
「今夜は兵糧丸で我慢してね」
いやちょっと待て、何を
「んんんーっ」
口移しで兵糧丸を飲まされた。
コップで飲めるし!
不本意ながら口移しで水も飲まされる。イルカが無意識にほぅっと息をつくとカカシは立ち上がった。すでにきっちり忍服を身に着けている。
「これよく効くから大丈夫だーよ?」
イルカの体に布団をかけ、ぽんぽんと上から優しく叩いた。
「じゃあゆっくり休んでね、センセ」
おやすみ、と頬にキスしてカカシは窓から出ていった。イルカは呆然とその窓を見つめる。
何なんだアンタはーーーっ
わけがわからない。いったい何なんだ。そして何故、自分は怒りを感じていない。いや、怒りはある。あるんだが、それよりも混乱しているといったほうがいいのかもしれない。
「わっけわかんねぇ…」
ポツリとつぶやき、イルカはいつしか眠りに落ちていた。
翌日、口移しされた兵糧丸は非常によく効いて体は元気一杯、仕事に支障は一切出なかった。
それがまた、イルカには物凄く癪に障った。
朝から任務に出たらしいカカシは夕刻、報告書を別な職員に提出していた。くノ一やら美青年やらが相変わらず周囲に群がっていた。
なんだか凄く癪に障った。
〜中略〜
「うーん、もうお前、ソレ、結婚しちまえ」
「は?」
「だからお前、その子に結婚申し込め」
ぽかりとイルカは口を開けた。
「なに、話が見えねぇんだけど…」
「イルカさぁ、お前、自分の性格を考えてみろよ」
ビシリと鼻先に指を突きつけられた。
「確かにお前はチョロい、鈍い、だけどさ、好きでもない子を相手に三ヶ月もHをするか」
「えええエッチって」
ボン、と耳まで赤くなればほらその顔、と突っ込まれた。何がその顔なんだろう。
「断言しよう。お前はその子に惚れている」
「ほっ惚れっ」
イルカはブンブンと手を振った。
「ないない、それはないって」
「夕べもHしたんだろうが」
「だから、それは向こうが強引で」
「イルカはさ、自分で思ってるより好き嫌い激しい人よ?」
ビシ、と額をつつかれた。
「相手、超絶強引で、まぁ、上忍だからお前、かなわないんだろ?」
「………」
「でもお前、本当に嫌だったら全力で拒絶するはずじゃん。少なくとも日常生活で顔に出ると思う。オレらが気づくのに一ヶ月かかんないね」
確かにそうだ。力でねじ伏せられただけの関係だったら仕事に穴を空けない分、あちこちに歪みが出ている。
「っつかさぁ、物憂げに雨眺めて相手のこと考えてる時点で惚れてるだろ」
ニブチン、と苦笑されればぐうの音も出ない。
「やっぱ…惚れてんのかな…」
「うん」
ボソリと呟けば友人はバシン、とイルカの背を叩いてきた。
「とりま、飯でもさ、一緒に食え」
「飯?」
「そうだ、飯だ」
友人は力強く言った。
「一緒に飯を食うって大事だぞ?会話も生まれるしな。なにより」
友人はニカリと笑う。
「一緒に暮らしていけそうって思えるじゃん」
「……お前って案外ロマンティストだよな」
「当たり前だ」
茶髪の友は大きく頷いた。
「いずれオレはナズナ先輩にプロポーズする身だ」
「まだ付き合ってもねぇけど?」
「告白するさ、今年こそ!」
ぐぐ、と拳を固めるヒラマサにイルカは笑った。気持ちが明るくなっている。欠片だけでも誰かに打ち明けられて楽になったのかもしれない。
「頑張ってみる」
「おぅ」
「仕事、すっか」
「おうおう」
二人は翌日の実習の練り直しに取り掛かる。ふと、ヒラマサが手を止めた。
「お前さ、まさか相手、ハナサト上忍とかじゃないよな」
「はぁ?」
素っ頓狂な声をあげたのは今度はイルカの方だ。
「いや、そりゃねぇか。時期があわねぇ。あの人、まだ帰ってきて一ヶ月だ」
「なんでそうなんだよ」
呆れ顔のイルカをチラリとみると、ヒラマサは眉を寄せた。
「いや、なんとなくなんだが、ちょっと気にかかるっていうか」
明らかに悪い意味でヒラマサは言っている。
「いい人だぞ?オレの元上官で世話んなったんだ」
「わかってっけどさぁ」
歯切れが悪い。
「とにかく、イルカは彼女とのことに集中して、ハナサト上忍との飲み会はひかえること。今は彼女第一な」
「おっおぅ」
ヒラマサはさっさと仕事に戻ってしまった。イルカも資料をめくる。そうだ、今はカカシのこと第一に考えてみよう。今のままでいいわけがない。
とりあえず飯、作ってみっか…
数日後には帰還してくるだろう。いつ来てもいいように飯を作って待っていよう。そして話をするのだ。道筋が見えた気がした。
もう『突然シフトを替える作戦』は必要ないとこの時のイルカは思っていた。
三日後の午後遅く、カカシが受付所に報告書を出しに来た。疲れを滲ませているにも関わらず相変わらずくノ一達が群がっていて、今から自分がカカシの面倒みるのだと争い合っていた。カカシは珍しくイルカの所へ報告書を提出したが、それはたまたま人がいなかったからだろう。忍服が乾いていたのに内心ホッとした。カカシが出ていった後、居合わせたくノ一達は髪がしっとり濡れているのも色っぽいなどと騒いでいた。
冷たい雨に濡れながらの任務だったのだ、疲れているのだと思わないのだろうか。きゃあきゃあ騒ぐくノ一達にイルカはなんとなくムカついた。
定時で受付をあがるとイルカはスーパーに走った。カカシは何が好きなのだろうか。考えてみるとカカシのことを何も知らない。好きな食べ物も苦手なものも、最初に飲む方なのか飯の後がいいのか、そんな些細な事すら何も知らなかった。
そういうことを話していこう。
きちんとカカシに向き合うのだ。最初からたくさん聞こうとは思わない。少しずつ話が出来ればそれでいい。
何もできなさそうに見えて一人暮らしの長いイルカは案外何でもこなせる男だ。レパートリーは少ないが料理も出来る。母親の味を思い出しながら自炊してきたので得意料理は煮物だ。揚げ物は一人だとやらない。油がもったいないし台所も汚れる。
「肉じゃがにしよ」
雨に濡れての任務だったカカシにはきっと優しい味の方がいい。圧力鍋で肉じゃがをこしらえ、味噌汁はネギと豆腐にした。ほうれん草のおひたしに鰹節をかけ、キンメの切り身が半額に下がっていたのでさっと薄味の煮付けにした。
「ま、これくらいでいいっか」
気合い入ってるとか思われたくねぇもんな…恥ずかしいし…
独身男が作った料理だと考えたら十分気合いが入っているメニューなのだがイルカはあまり自覚がない。飯が炊け風呂も沸いた。じきにやってくるだろう男を思ってイルカは窓の外を見る。雨がまたひどくなってきた。
ふと、意識が戻った。どうやら自分はうたた寝していたらしい。時計を見ると夜の八時だ。
腹減ったなぁ。
ちょっとつまみ食いするか、とイルカは台所へたった。台所の先が玄関だ。カカシは雨の季節になってからは窓ではなく玄関から入ってくる。部屋を濡らさないためなのだろうが、そんな気遣いはするくせ、平気で玄関の鍵を開けて無断侵入する。気遣いの基準がよくわからない男だ。まぁ、だからこそ『強姦魔』なのだろうが。
イルカは玄関ドアを眺めた。遅いようなら先に食べて着替えた方がいいかもしれない。帰ってすぐ料理をしたからまだ忍服のアンダーのままだ。
「どれどれ、肉じゃがのお味は」
圧力鍋で煮えたあとそのまま冷ましたので味がしみているはずだ。分厚い鍋フタを取った時、空気が動いた。玄関を見てぎょっとする。黒いフードをかぶった狐面の暗部が立っていた。いつドアが開いたのだろう。暗部が面を外した。
「カカシさん…」
ふっとカカシが目を細めた。黒いフードを下に落とす。
「あの…」
ごくり、とイルカはつばを飲み込んだ。
「これからまた任務ですか…?」
カカシが訝しげに首を傾げた。それはそうだろう。カカシが訪れた時、イルカから話しかけることはめったにない。サンダルを脱ぎ捨てカカシはイルカの前に立った。
「どーしたの?こないだから積極的だね、セーンセ」
イルカの頬に手を伸ばそうとして、鉤爪の手袋だと気づいたのか、下にそれを落とした。ゴトリと重い音がする。
「あっあの…」
チラリ、とカカシが鍋を見た。
「センセ、食事は後にしてもらえる?」
こっち先にね、とイルカに手を伸ばしてくる。
「いっいえ、違います。違うんです」
イルカは慌てて首を振った。食事を一緒に、と言うチャンスだ。
「任務ならちゃんと食べないと」
カカシがまた首をかしげる。本当に、この料理がカカシのためのものだとは微塵も思っていないのだ。
「だからっ」
怒鳴るようにイルカは言った。
「オレ、カカシさんと一緒に食べようと思って作って待ってたんです」
わずかにカカシの目が見開かれる。
「オレに…?」
「はっはいっ」
言えた。
イルカは息をつくと同時に耳まで赤くなった。
「くっ口にあうかわかんないですけど…」
カカシを見ることができずイルカは目を落とした。沈黙が重い。
「あの…」
ふぅ、とため息が落ちてきた。ギクリと顔を上げるとカカシの青い瞳とぶつかった。何の感情も浮かんでいない無機質な目、イルカはギクリと体をこわばらせる。カカシが手を伸ばしてきた。
「だめだぁよ、センセ」
頬を撫でられる。
「オレはすぐにいなくなる人間なんだから、情を移しちゃだぁめ」
鈍器で殴られたような気がした。呆然と立ちつくすイルカの腕をカカシは引く。
「それより、気持ちいいことシヨ?」
いつもと同じようにカカシは抱いてきた。終われば優しく体を拭き後処理をした。事後は丁度味噌汁を作っていたからそれを飲ませてくれた。イルカは人形のようにそれらを受け入れる。冷たい塊が胸を塞いで何も感じなかった。
〜中略〜
アイツらのことをよろしくお願いします、そう言った瞳がまっすぐで好ましかった。
『写輪眼のカカシ』に媚びることも恐れることもせず、自然に挨拶をしてくる態度は心地よかった。
上忍師となったカカシが出会った部下達の元担任教師うみのイルカ、彼を見ると久しく動くことのなかった心にさざ波が立ち始めた。
カカシは別に冷血な人間ではない。幼い頃は父に愛された。その父を不当な糾弾で失ってからも、三代目や担当上忍波風ミナトら大人達から慈しまれた。あまり表面には出さない性格だったが、十分愛情深い人間に育っている。
だが戦争で、九尾の災厄で、大切な人達を失って以来、胸の奥がシン、と静かで何も感じなくなっていた。暗部の後輩や昔馴染を大事に思う気持ちはある。実際、大事にもしている。だが、何をしていても常に胸の奥底は静まり返って凪いだ湖面のようだ。冷たく静かで、あぁ、自分の中の何かが死んでしまったのだとカカシは思った。
そんなカカシだったのに、いつからだろうか、イルカを見ると胸の奥のシンとした部分がユラユラと動き始めた。イルカが笑うと、鏡のように凪いだ水面にひとしずく、水滴が落ちたようにさざ波が広がる。それはとても温かい波で心地よい。だからカカシはいつもイルカを見ていた。ただ、見ていた。イルカと交流を持ちたいとか、どうこうなりたいとかは思っていなかった。
あの人はまともな人だものねぇ。
カカシはそう思っている。自分のような普通でない人間は側に寄ってはいけないのだ。見ているだけで満足だった。
「見てねぇで飯にでも誘ってみろよ」
今日も待機所の窓からイルカを見ていたら、同じ上忍師で昔馴染の猿飛アスマが声をかけてきた。アスマはどうやらカカシを心配しているらしい。アスマはいつもカカシを心配する。何故なのか今ひとつわからないが、おそらく自分は端からみてもかなりおかしい人間だからだろう。タバコの煙をふぅーっと吐いてアスマは言った。
「イルカも喜ぶと思うぞ?」
「そうかな」
「そうだ」
アスマは面倒見がいい。おかしな人間である自分にも優しい。カカシは微笑んだ。
「ありがとう」
そして首を横に振る。
「でもいいんだ」
「おい」
カカシはただ柔らかく微笑む。
「ありがとうね、アスマ」
それからカカシはまたイルカを眺めた。上忍待機所の窓からはアカデミーの中庭がよく見えるのだ。イルカが子供達に笑いかけている。カカシも目元をやわらげる。アスマが悲しそうな顔でこっちを見ていたが、それはきっとカカシがおかしな人間だからなのだろう。でもどこがおかしいのか自分ではわからない。カカシはもう一度、アスマに微笑みかけ、それからイルカに視線を移した。イルカ先生はいつも元気いっぱいだ。元気の波動は待機所にいるカカシにまで伝わってきて、シンとなった胸の奥に小さなさざ波をたてる。その感覚が楽しくてカカシはイルカを眺める。いつも眺めている。
「お疲れ様です、カカシさん」
上忍師をしているとたまに話をする機会がある。受付所で七班の任務を受けたり報告書を出したりするときだ。
受付カウンターの向こうから真っ黒で綺麗な目がカカシをまっすぐ見つめてくる。快活な声がカカシの名前を呼ぶ。するとカカシの胸の奥のさざ波はいつもよりもずっと大きなうねりを起こして、温かいものが一杯に満ちてくる。
くっついてきた子供達がワイワイ騒いでじゃれつくとイルカはとても嬉しそうに笑う。とっても嬉しそうなのに、受付所で騒ぐんじゃないって小言を言う。
可愛いなとカカシは思う。イルカがとても喜ぶので、毎回子供達を連れて行く。子供達とイルカの大騒ぎを眺めた後は、受付所を出てからもさざ波は治まらない。ぽかぽかと胸の奥も温かいままだ。カカシはこの感覚を気に入っていた。だから、受付所にイルカがいない日はとてもがっかりだ。ナルトもがっかりしているが、本当はカカシの方が落胆している。そんな日は胸の奥はシンとしたままでとても冷たい。がっかりしたままカカシは帰る。飯も食べたくなくなる。でもカカシは骨の髄まで忍びなので、きちんと食べてきちんと休む。
「アンタさ、イルカのこと、好きなんでしょ?」
ある時、紅がそう言った。カカシは首をかしげる。
「だから、イルカを好きなんでしょうって」
「それは紅がアスマを好きっていうのと同じ意味?」
素直に聞けば紅が首まで赤くなった。
「バッ…アンタ、デッデリカシーないわねっ」
よく言われる。特に女の人には言われ慣れている。本当のことを言うと何故彼女達は怒るのか。
「とっとにかく」
顔を赤くしたまま紅は咳払いした。
「見つめてばっかじゃなくて動きなさいよ。男同士だけど忍びなんだし、別にいいでしょ?」
紅もアスマと同じで昔馴染だ。やっぱりよくカカシの心配をする。とても良い奴だと思う。
「もう、まどろっこしいのよ。ご飯にでも誘えば?」
カカシは笑って首を振った。
「いいんだ」
「なんでよ」
アスマと違うのは結構食い下がってくるところか。
「見ているだけでここがね」
カカシはとん、とベストの上から胸をついた。
「ぽかぽかしてくるから、それでいいんだ」
紅がポカンと口を開けた。それからまた赤くなる。
「あっきれた」
「?」
はぁぁ、と大きなため息をつかれる。
「やっぱり好きなんじゃない、イルカのこと」
「好き…オレが?」
「そうよ」
「イルカを好き…?」
その言葉はすとんとカカシの中に落ちた。あるべきところにピタリとはまったと言うべきか。
「そっか…」
あぁ、オレはイルカが好きなのか。
驚きとともに湧き上がってきたのは喜びだった。まだ自分の中にも残っていたのか。人を好きになれる心があった。心は死んではいなかった。
「なーに笑ってんのよ。気持ち悪いわね」
紅が渋い顔をしている。
「笑ってる?オレが?」
「アンタねぇ」
もう一度紅はため息をついた。
「アンタって天才だけどバカよね」
カカシはただ眉をあげる。時折紅の言うことは理解不能だ。だが、気分がよかった。
オレはイルカが好き。
いつだってカカシの胸の奥のシンと凪いだ水面に波をたて、様々な色や温度を与えてくれるのはイルカなのだ。カカシはイルカを見つけた。もう何も言うことはない。カカシの中ではそれで全て完結した。完結するはずだった。
人の心に予定調和などありえないのに。
オフ本に続く
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