凍てつくような気配が近づいてくる。報告書を提出にきた忍び達で賑やかだった受付所はシン、となった。気配がドアの前に立つ。受付所に緊張が走った。ギッ、と軋んだ音をたてドアが開いた。入ってきたのは銀髪の忍びだ。冷え冷えとした気を纏った男は血と泥で汚れている。ドアの近くにいた忍びがひっ、と小さく悲鳴をあげ尻餅をついた。その音は静まり返った受付所内でやけに大きく響く。
「カカシ。」
受付カウンターに座る五代目火影が名を呼んだ。カカシと呼ばれた銀髪の忍びは、だが火影に目もくれずのっそりと火影の隣に座る男の前に立った。
「にっ任務、お疲れさまです。はたけ上忍。」
「その呼び方はやめろって言ったでしょ。」
報告書を火影の方へパラ、と放るとはたけカカシはカウンターに座る黒髪の男の手を掴む。
「カッカカシさんっ…」
「帰るよ。」
「でもまだ仕事が…」
頭のてっぺんで一つくくりにした黒髪を揺らし、男は掴まれた手を引いた。
「まだ仕事中なんです。」
銀髪の忍びの、唯一露になった右目が冷たい光を放った。
「だから?」
「カカシさ…」
「ねぇ、イルカせんせ。」
ゆら、と体を前かがみにしてカカシは囁くように言った。
「口答えしないでよ。でないとまた酷くしちゃう。」
イルカの鼻の上を横切る大きな傷を親指でつつぅ、となぞる。
「ね?」
痛いの、ヤでしょ?そう吐息とともに囁かれイルカはひゅっと息を飲んだ。カカシの藍色の目が細められる。
「物わかりのいいセンセは好きですよ?」
「おい、カカシ。」
バン、と受付カウンターが鳴った。五代目火影が両手をついて立ち上がっている。
「お前、いい加減…」
「綱手様。」
視線はじっとイルカを捉えたまま、冷え冷えとした声音が辺りを打った。
「約束しましたよね。オレが例の任務を全て片付けるかわりに、この中忍を自分の好きにしていいって。」
「それは言ったが、しかし今はまだ就労時間中…」
「まさかオレが生きて戻るとは思わなかった?」
氷のような視線がフッと綱手に向けられた。口布の下に歪んだ笑みが浮かぶ。
「そりゃ残念でしたね。」
「カカシッ。」
ドン、と拳が机に叩き付けられる。だがそこまでだった。立ち尽くす綱手から興味なさげに視線をはずし、イルカの手を引く。
「センセ、早く。オレ待たないよ?」
甘えたような口調に反して目は冷たい。イルカは綱手に会釈すると立ち上がった。無駄だとわかっているからか、荷物をまとめようともしない。
「ふふ…やぁっと覚えたようだねぇ。」
まるで小さな子供を抱き上げるように両脇に手を入れイルカをひょいとカウンターの外に出す。
「ご褒美あげなきゃね。縛ってあげようか?それともビーズ入れてほしい?」
「カッカカシさんのがいいで…す…」
おどおどとイルカが答える。ちゃんと言わないと帰ってから酷くされると体に覚えさせられた。
「カカシさんのをいっいれて…ほしいです…」
「いい子、いっつもそうやって素直にしてりゃいいんですよ。」
くす、と肩を揺らしカカシはイルカの腰に手を回した。ぐい、と引き寄せる。
「こうやって歩いて帰ろうか?周囲に見せつけながら、さ。」
「オッオレは…」
ぐいぐいと押し付けられる腰にイルカはぶるり、と体を震わせた。
「早く帰ってシタイです。」
くくく、とカカシがくぐもった笑いを漏らした。
「好き者だね、センセ。」
腰を押し付けたままカカシが素早く印を結ぶ。次の瞬間、煙とともに二人の姿はかき消えていた。ほう、と受付所全体の空気が弛んだ。若い忍びや下位の忍びは緊張の糸が切れた途端、へなへなと崩れ落ちる。綱手もがっくりと椅子に腰を落とした。組んだ両手に額を押し当てる。
「……綱手様。」
「ガイか。」
顔をあげないまま綱手は答えた。
「熱血なお前がカカシに絡まんとは珍しいじゃないか。らしくない。」
「今のカカシはオレなんぞ目に入っておらんのです。」
苦悩に満ちた声音に綱手は顔をあげた。いつもは白い歯を煌めかせ、鬱陶しい程暑苦しい男の顔に覇気がない。
「オレには何故アイツがあそこまで自暴自棄になっているのかわからない。ただ、友が苦しんでいる、わかるのはそれだけです。」
今のカカシには誰の言葉も届かないのだろう。昔なじみのガイやアスマでさえ、何も言えないのだ。綱手は苦しげに顔を歪めた。
「もう行きな。」
忸怩たる思いで綱手は手を振る。
「行きな。」
ガイは一礼して静かに受付所を出て行った。重苦しい空気のまま、それでも業務は再開される。受付所は次第にざわめきを取り戻してきた。あれこれ無駄話を始める忍び達を眺めながら綱手は苦い思いをかみしめる。
「どこで間違っちまったんだろう、アタシは…」
小さな呟きは誰にも聞かれる事なく、ざわめきの中に溶けて消えた。
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