なぁイルカ、里外れのさ、旧道の脇に祠あんの知ってる?
違う違う、木の葉神社とは反対の方、里ができる前からあったとかいう、え?祀られてるのって観音様じゃねーの?見たことねぇけど子引き観音っていうくらいだし。
でさ、お前、噂知ってる?あそこって寂しい子供がお参りすると観音様が連れてってくれんだと。どこって、そりゃ観音様の住んでるとこじゃね?すっげいいとこで楽しいとこなんだと。だからもう帰りたくなくなるんだってさ。
え、別にお前が寂しい子供だなんて一言も言ってねぇじゃん。ただそういう噂のあるふるーい祠があるって話、ただそんだけだぜ?
同期のミズキに言われたから来たのじゃない。たまたま、下忍任務の帰り、旧道の近くまで来たから寄ってみただけだ。
イルカは木の葉の外れ、今ではあまり人通りのない旧道脇の祠の前にいた。それは十三歳のイルカの背丈と同じくらいの小さな、古びた木造の社だった。両開きの扉の前にはボロボロではあるがとりあえずしめ縄が張られている。木の葉ができる前からあった祠なのに今もちゃんとしめ縄が張ってあるということは管理している者がいたということだろうか。随分と古いしめ縄だからもう途絶えたのかもしれない。
「別に通りがかっただけだし」
誰に言うともなくイルカは呟いた。葉を落とした木々の間を師走の冷たい風が吹きすぎイルカはブルリと体を震わせた。もうすぐ日暮れだ。早く帰らないとこんな林の中、あっという間に真っ暗になってしまう。なんだってこんな所に来てしまったのか。自分はもう一人前の忍びだ。寂しくて泣いていた子供ではない。
「もう下忍だし」
自分に言い聞かせるように今度ははっきりと声に出した。
確かに、上忍師の試験に通って額あてをもらっても報告する相手がいなくて寂しい思いはした。でもそれはアカデミーを卒業した時の話だ。今では単独任務だってできるようになった。たとえそれが三代目のお使い任務であってもだ。
「帰ろ」
夕焼け空に木々の枝が黒黒と浮かび上がって、足元から寒さが這い上がってくる。イルカはくるりと踵を返した。
馬鹿馬鹿しい。ミズキはたまにああいう意地悪を言うのだ。早く帰ろう。報告をすませてそれから一楽のラーメンを食べにいこう。こんな寒い日はラーメンに限る。
イルカは駆け出した。旧道から表通りまで走れば五分、たいした距離じゃない。表通りにさえ出ればすぐに繁華街だ。イルカは走るスピードをあげた。ラーメンのことだけ考えよう。今からラーメンを食べるのだ。味噌にしようか醤油にしようか、今日は特別にチャーシュー大盛りでもいい。いつの間にか寒さを感じなくなっていた。12月も末だというのに不思議とポカポカ暖かい。走ったから体があったまったのだろうか。それともラーメンのことを考えてたから…
「……あれ」
イルカは立ち止まった。
「あれ…れ…?」
周囲を見回す。ここはどこだろう。滅多に来ないとはいえ旧道の風景はよく知っている。なのに今、イルカがいるのは全く見覚えのない小道だった。真っ直ぐに伸びた道の先は暗闇に沈んでいる。そう、暗闇だ。さっきまで朱に染まった夕焼け空が広がっていたのに、いつの間に真っ暗になったんだろう。ゾワリと皮膚があわだった。イルカはその場に立ちすくむ。ここはどこだ、いったい何が起こったのだ。
シャン
澄んだ鈴の音が響いた。小道がぽぅっと淡く光っている。花だ。小道の脇にたくさんの花が咲いている。色とりどりの小さな花はそれぞれが淡い光をまとってイルカの周囲を照らしていた。
シャンシャン
鈴の音が響く。小道の先から響いてくる。暗闇に沈んでいると思っていた道の先が白く明るく輝き始めた。
シャンシャンシャン
次第に大きくなる鈴の音とともに笑い声も聞こえてきた。子供だ。子供達の笑い声だ。笑い声は自分より幼かったり同じくらいだったり、でも、そのどれもがとても楽しそうだ。イルカもだんだん楽しくなってきた。そうか、この先に行けばいいのだ。空気はふわふわと暖かい。イルカは足を踏み出した。この先に行けばいい。そうしたらもう寂しいことも辛いこともない。それがわかる。
鈴の音が響く。ふと、足元の花をみると花弁の真ん中にお菓子が見えた。
「こんぺいとう?」
目をぱちくりさせてよくみると、足元の花の中に花と同じ色のこんぺいとうがあった。小指の先くらいのちょっと大きめの、とげとげが不格好で不揃いで、そうだ、このこんぺいとう、イルカの家から大通に出た角の店で作っていたのこんぺいとうだ。青や黄色や赤やピンク、色とりどりの砂糖菓子は大きなガラス瓶に入って売られていた。ガラスがきらきらして、中の砂糖菓子はまるで宝石みたいで、お使いに行くとご褒美に父ちゃんがこんぺいとうを買ってくれた。コロコロした綺麗な砂糖菓子をイルカは自分の家の小さなガラス瓶に入れた。いっぺんに食べちゃうのはもったいない。
「こんぺいとうだ」
イルカは嬉しくなって青い花からこんぺいとうをつまみ上げた。
「あれぇ」
こんぺいとうの花の横には小さなホットケーキが咲いていた。その横にはイチゴのケーキ、それから
「これ、唐揚げじゃね?」
足元に咲いていたのはお菓子だけではない、ハンバーグやポテトサラダ、イルカの大好物が花になって咲いている。お皿につがれて湯気を立てるカレーまであった。
「母ちゃんのご飯…」
サイズは小さいがイルカの足元に咲いているのはすべて、母親が作ってくれたイルカの好物、父親が買ってくれた大好きなお菓子だ。両親と囲んだ食卓が足元に咲いている。
「うわぁ」
イルカは思わず歓声を上げた。きっと観音様だ。ミズキが言っていたのは本当だったんだ。観音様がイルカを救ってくれる。これからは寂しい思いも辛い思いもしなくていい。この道の先に行けばずっと楽しく暮らしていけるんだ。だってこんなに暖かいし、イルカの好きな食べ物だって一杯ある。
「うわぁ、うわぁ」
嬉しくてイルカはぴょんぴょん飛び跳ねた。
早くあの明るいところへ行こう。
あ、そうだ、その前にこんぺいとう食べちゃえ。
イルカはさっきつまみ上げたこんぺいとうを口に放り込もうとした。
「それ食べたら戻れなくなるよ」
突然声がした。こんぺいとうが何かにはじかれて地面に落ちる。
「たぶんね」
至極不機嫌な声だ。
「っつか食い意地はってんじゃないよ、クソガキ」
クックソガキ?
「お前、額当てしてるってことは下忍でしょ。忍びがわけのわかんないもん、口に入れてどーすんの」
ぬっと白い狗の面が現れた。
「ぎゃあ」
思わず尻もちをついた。だってイルカの目の前に現れたのは白いプロテクターに黒い鉤爪と背中に背負った忍刀、暗部だ。木の葉の暗部だ。
「うひゃあっ」
「五月蝿い。いちいち悲鳴あげないでくれる?」
「ああああああんぶ」
「五月蝿いっつってんでしょ。そう、暗部だよ、木の葉の暗部。悪い?」
ぶんぶんとイルカは首を横に振る。スラリとした体躯の長身の忍びはガシガシと銀髪をかいた。
「悪かった。お前に苛ついてるわけじゃないんだ。自分の不甲斐なさっていうかね」
狗面の暗部は手を差し伸べてきた。だがイルカはお尻で後退りする。黒い鉤爪が目の前にくればそりゃあ怖い。
「だから悪かったって。怯えなくていいからさ」
銀髪の暗部ははぁ、とため息をつくとぐい、とイルカの腕をつかんで引き起こした。
「はわわわわ」
「ほら、大丈夫でしょ?」
確かに、黒い鉤爪がイルカを傷つけることはなくちゃんと立たせてくれた。ぱふぱふとお尻の汚れもはらってくれる。
「あっあの、ありがと…」
「どーいたしまして」
ふふふ、と小さく笑ったようだ。イルカは少し安心した。暗部といっても同じ木の葉の忍びだ。理由もなく乱暴はしないだろう。しかもこの長身の忍び、面で顔は見えないが粗暴な感じはしない。イルカの服をはたきおわると、銀髪の暗部はぐるりと周囲を見回した。
「まさかこんな所に引っ張り込まれるとはね」
忌々しげに呟く。
「オレもまだまだだぁね」
イルカはマジマジと暗部を見つめた。よく見ればまだ体の線が細いし声も若い。自分より年上なのは間違いないが年齢差はあまりないだろう。この暗部も九尾の災厄でひとりぼっちになってしまったのかもしれない。じゃあイルカと同じ寂しさを抱えているのか。
「あの、兄ちゃんってさ」
「はぁ?兄ちゃん?」
「あわわわわ」
イルカは慌てふためいた。なんて呼んだらいいのかわからず、自分より年上だから『兄ちゃん』と言ってしまったがまずかったろうか。ここはやっぱり『暗部さん』とか、いや、上官だから『暗部様』とか、そうだ、『暗部様』って呼ばないといけなかったんだ
「すっすみません、暗部様っ」
面ごしにも暗部がぽかんとなったのがわかる。イルカはたたみかけた。
「あああの、暗部様」
ぶはっと暗部が吹き出した。
「あっあのぅ…」
「いや、いい、兄ちゃんでいいよ。あんまり斬新でびっくりしただけだから」
笑いながら銀髪の暗部は鉤爪のついた手をひらめかせた。
「にしても暗部様、はないよねぇ」
ゲラゲラ腹を抱えて笑っている。イルカは思わずぷぅ、と頬をふくらませた。
「そんな、笑わなくったっていいじゃないか。なんて呼べばいいかわかんなかったんだもん。兄ちゃんだってオレのこと、クソガキって」
「悪い悪い」
銀髪の暗部はぽんとイルカの頭を軽く叩いた。
「でもクソガキでしょ?忍びのくせわけのわかんないもん、食べようとしてたんだから」
ぐっとイルカは言葉に詰まる。確かに、花に食べ物がくっついてるなんて普通じゃない。何故あの時、食べようと思ったのだろう。
「ねぇ、お前にはあれ、何に見えてたの?」
「え?」
狗面の暗部が道端を指差す。
「今、何が見える?」
「なにって…」
暗部が指差しが所には花が咲き乱れている。色々なお菓子や料理の花だ。
「イチゴケーキとか唐揚げとかハンバーグとかホットケーキとか」
「そっか、そういうのが見えてんだ」
暗部の声が優しくなった。
「お前の思い出にはいっぱい食べ物があるんだねぇ」
イルカは首をかしげる。狗面の若者にはあれは別なものに見えているのか。
「兄ちゃんにはハンバーグ、見えてないの?」
「ん〜、オレ?」
狗面の若い暗部は少し首を傾げて花を見つめた。
「オレにはねぇ、爆弾」
「えっ」
爆弾ってそんな物騒なもの
「あぁ、違う違う。知らない?爆弾ってお菓子」
「しっ知らない」
心なしか青ざめたイルカに若い暗部は肩を揺らした。
「んー、あのね、ホットケーキの粉あるじゃない。あれを団子みたいに丸めてね、油で揚げたお菓子のこと、爆弾っていうんだよ」
「あ、団子みたいなドーナツのこと?」
「そう、食べたことある?」
「母ちゃんが作ってくれた」
思い出した。休日、ホットケーキを作ってくれるのかなって思っていたら丸くしたタネを油にいれて、なんだかゴツゴツしたドーナツが出来あがってきたんだった。でもそのゴツゴツドーナツはホカホカでとても美味しかった。
「そっか、お前の母さんが作ってくれた爆弾はまともだったんだね」
その話をすれば若い暗部はふふ、と柔らかい声で笑った。
「オレんとこはね、父さんが作ってくれたんだ」
「父ちゃん?兄ちゃんちは母ちゃんは作らなかったの?」
暗部はまた微かに笑った。
「母さんはオレを産んですぐ死んだから」
「あ…」
しまったと顔に出たのだろう、銀髪の暗部は気にするなというように頭を撫でてくれた。
「父さんが唯一できるお菓子が爆弾だったんだけどね、それがもう焦げてるわ中身は生だわ、一箱分のホットケーキの素、使って成功したのは一個か二個じゃなかったかな」
声に懐かしさが滲む。
「忙しい人だったのになぜか休日になると爆弾、作るんだよねぇ」
若い暗部は周囲を見回した。
「おかしなもんだね。オレには一面、父さんの作った爆弾が花の上にのっかってるように見える。あんな焦げ方してんの、父さんの爆弾以外、ないから」
そうか、とイルカは納得した。やっぱり、この銀髪の暗部は大事な人達を亡くしたのだ。そしてとても寂しい。イルカのように寂しい。だからここに来た。だから花の中に『父さんが作ってくれた爆弾』が見える。
「兄ちゃんも寂しいの?」
聞いてはいけないことなのだろう。だがイルカは聞かずにはいられなかった。やっぱりここは寂しい子供を救ってくれる観音様の世界なのだ。そう確信したかったのかもしれない。
「兄ちゃんも寂しくて、だからここに来たの?」
暗部は黙ってイルカを見下ろした。狗面のせいで表情はわからないが、怒っているようには見えない。
「オレの父ちゃんと母ちゃん、九尾の災厄で死んだんだ。オレ、一人になったけど、でも絶対寂しいとか言わないって、大丈夫だって」
今まで誰にも泣き言なんか言わなかった。三代目が気遣ってくれた時だって、泣いてはいても寂しいなんて絶対に言わなかった。
「でもホントはすごく寂しい」
ぽつん、と言葉が漏れた。
「寂しかったんだ」
暗部は何も言わない。
「だってさ、アカデミー卒業した時も、下忍に合格した時も、誰もいないんだ。よくやったなって、頑張ったなって褒めてくれる人、誰もいない。オレ、慰霊碑に行って報告したけど、慰霊碑は石だもん。結局石だもん。寂しいに決まってるじゃないか。そしたら友達が寂しい子供を救ってくれる観音様がいるって」
イルカは必死に言いつのった。なぜ自分がこんなに必死なのかよくわからない。だけど全部吐き出さないといけないような気がした。
「ここには母ちゃんの作ってくれたご飯がある。父ちゃんが買ってくれたお菓子がある。観音様の世界だからだよね?寂しくならないよう観音様が出してくれてるんだよね?あそこに行けばもう大丈夫なんだよね?」
イルカは白く明るい道の先を指差した。
「兄ちゃんも寂しかったんだよね?だからお父さんの作ってくれた爆弾が見えるんでしょう?行こうよ兄ちゃん、あそこ、観音様のとこに行こうよ」
恐れも悲しみもイルカの中にはなかった。ただ浮き浮きと楽しい気持ちだけが沸き起こる。
「兄ちゃん、行こう」
鉤爪のついた手袋をした暗部の手をイルカは引いた。
「兄ちゃん、早く」
ぐいぐいと引っ張る。早く行かないとあの白い温かい場所がなくなってしまうじゃないか。
「兄ちゃんってば」
「クソガキ」
「わぁっ」
ぐい、と襟足を掴まれ吊り上げられた。
「なな何すんだっ」
宙ぶらりんのまま手足をバタつかせるとポイ、と放られる。
「まったく、言いたいことはそれだけか、クソガキ」
ごろごろと転がったイルカの上にバカにしたような声が落ちてくる。ムカっとなった。
「クソガキじゃないやいっ」
「クソガキだろ?」
「ちがわいっ、うみのイルカだっ」
「ふ〜ん」
銀髪の暗部は腕組みした。
「お前なんかクソガキで十分だよ、クソガキ」
「なんだとぉっ」
頭に血が上った。いくら暗部だからって人を馬鹿にしすぎだ。
「暗部だからって威張ってんじゃねぇやいっ。オレだって下忍だ、一人前の忍びなんだからなっ」
「そう、一人前の忍びだよねぇ」
とん、と鉤爪が額当てを突いた。
「お前の両親は里を、お前を守るために死んだんでしょ?」
イルカはハッとなる。
「お前の両親だけじゃない。あの日大人達は子供を守るために命をかけた。オレ達子供に未来を託していったんだ」
厳しい声がピシャリと言う。
「あのね、忍びとか関係ないんだよ。忍びだろうが普通の子供だろうが、先に逝った人達はオレらにちゃんと生きていってほしいって願ってんの。こんな胡散臭い観音なんぞに縋るため、あの人達は死んだんじゃないんだ」
「あ…」
頭を殴られたような衝撃だった。そうだ、自分は何をしていたんだ。何が温かくて楽しい世界だ。そんな世界に逃げ込む姿、両親が喜ぶはずがない。
「オレ…」
「わかる?」
恥ずかしい。イルカは唇をかみしめた。なんて情けない。浮き浮きと浮かれて自分はなんて恥ずかしい真似をしてしまったんだ。
「まぁねぇ、オレもこんなとこに来ちゃったわけで、お前のこととやかく言う資格ないんだけどね」
ガシガシと暗部が銀髪をかき回した。
「お前の言うとおり、オレも寂しかったんだねぇ」
すとん、とイルカの前に腰を落とす。
「でもね、オレは帰るよ。どうやったら帰れるのかはわかんないけどね、ほらあそこ」
若い暗部は親指でひょいと道の先を指し示した。
「たぶん元凶はあそこにいる。とりあえず一発ぶちかますから、帰ろうと強く思えば多分帰れるでしょ」
暗部は狗面ごしに顔を覗き込んできた。
「で、お前はどうする?うみのイルカ君」
「オレ…」
「誰もお前を連れて帰ることは出来ない。自分で決めな」
「オレは」
イルカはキッと顔をあげた。
「木の葉へ帰る」
暗部が小首を傾げた。
「帰ったらまた辛いこと、寂しいことばっかだよ?」
だがイルカは叫んだ。
「オレだって木の葉の忍びだ。父ちゃん、母ちゃんから火の意志を受け継いでんだ」
「ん」
ふっと笑う気配がする。ぽんぽん、と暗部はイルカの頭を撫でた。
「ごーかっく」
それからひょいと面を取った。
「わぁっ」
慌ててイルカは両手で目を覆った。
「かっ顔っ、暗部が顔みせるとかっ、顔みたら殺されるっ」
「あのねぇ、暗部を兄ちゃん呼ばわりしといて今更でしょ。っつか、里での暗部イメージ、どーなってんのよ」
呆れ果てた声にイルカはおそるおそる手をどけた。目の前に端正な顔立ちの若い男がいた。年は十七か十八くらい、鼻の上まで黒い口布をしているがイケメンである。銀髪の暗部は深い紺色と緋色の不思議な目をしていた。
「兄ちゃんの目、変わってんのな」
「そう?」
こくこくとイルカは頷く。
「でもすっげ綺麗」
「綺麗?」
目を細めた暗部にイルカはまたぶんぶんと頷く。
「兄ちゃん、イケメンだなぁ」
「そう?」
くすり、と笑うと銀髪の暗部は狗の面をイルカの頭にかけた。
「お守りにやる。だからちゃんと帰れよ」
「お面、大事なんじゃないの?」
「大事だね」
ふふふ、と柔らかく笑った。
「大事な面だからお守りなんだぁよ」
ぽん、と頭に手を置かれる。
「自分次第だ。迷うな」
きっぱりとした声で暗部は言った。色違いの目をまっすぐみつめ、イルカはこくりと頷いた。すっと暗部は立ち上がると道の先を見据える。
「さって、舐めた真似されたことだし、落とし前つけさせてもらいましょーかね」
道の先、白く明るい光はますます強さを増した。子供達の笑い声と鈴の音が近づいてくる。
「まやかしの温もりなんぞ害悪でしかない」
銀髪の暗部のまとう空気が鋭くなった。ぶちかますと言っていた。この暗部は今からあの光の先にある何かを攻撃するつもりなのだ。大事な面はお守りといってイルカにくれた。じゃあこの暗部を守るのは、何か兄ちゃんを守るものがなかったか。そうだ、お守り。イルカが肌身離さず持っているお守りがある。
「兄ちゃんっ」
イルカは叫んだ。
「兄ちゃん、これっ」
懐から守り袋を取り出した。母が作ってくれた青いちりめんの守り袋だ。それを暗部の左手に押し付けた。暗部が目を見開く。
「お前の大事なもんでしょ?」
「兄ちゃんのお守りにしてよ。オレにはこれがあるから」
イルカは狗の面を胸に抱いてニカリと笑った。
「兄ちゃん、絶対帰ろう。約束だよ?」
ふっと暗部が目を細める。
「約束?」
「うん、約束」
きゅ、とイルカの守り袋を握ると暗部は懐へそれをしまった。それから真っ直ぐ、道の先を睨みすえる。チチチチ、と暗部の右手が光と音を放ち始めた。手の光は次第に青白い輝きを増し、まるで雷光のよう。
「イルカ、またね」
そう言うとバリバリと放電する雷を右手に宿した暗部は道の先の白い光に向かって駆け出した。
「兄ちゃんっ」
しゃんしゃんと鈴の音、子供達の笑い声、破れ鐘のように響きはじめる音、音、音。頭が痛くなる。。道がぐにゃぐにゃとうねって立っていられない。笑い声、鈴の音、きゃあきゃあと子供の笑い声、あんなに楽しそうに思えた声が今では薄気味悪い。背筋が凍る。突然、雷が落ちたような轟音が響いた。同時に炸裂する光、辺りの空気を引き裂くような凄まじい悲鳴があがった。轟音が、光が、悲鳴が渦を巻く。
「兄ちゃんっ」
イルカは狗の面を抱きしめた。怖い、怖い、怖い、戻れるのか。本当に自分は元の世界に戻れるのか。
「兄ちゃ…」
迷うな。
銀髪の暗部の声がした。そうだ、自分は帰るんだ。絶対帰るって約束したんだ。
「帰るんだーーーーっ」
ふっとすべての音と光が消える。
気がつくとイルカは旧道と表通りが交差する場所に立っていた。表通りの先からは繁華街の喧騒が聞こえてくる。日はすでにとっぷりと暮れていた。
夢…?
今までのは何だったんだろう。夢を見ていたのか。ここはよく知る木の葉の通りだ。イルカは空気の冷たさにぶるっと体を震わせた。その時、自分が固く抱きしめているものに気がついた。暗部の、狗の面だ。
「兄ちゃん…」
大急ぎでイルカは自分の懐をさぐった。母親の守り袋がない。
「夢じゃなかった…」
両手で狗の面を握りそれを見つめた。夢ではない。確かに自分は妙な世界に入りこんでいた。そして銀髪の暗部に救われたのだ。
「兄ちゃん」
周囲を見回すがあの銀髪の暗部の姿は見当たらなかった。だが約束した。きっとあの暗部も木の葉の里へ帰れたはずだ。母親の守り袋が暗部を守ってくれている。この面が自分を守ってくれたように。
イルカは面を再び抱きしめた。またね、とあの暗部は言った。絶対また会える。だったら胸を張ってあの暗部の前に立てるよう、自分は強く生きていく。やっぱり寂しいし辛いことも一杯あるだろう。でももう大丈夫だ。逃げ出したりしない。だってまたあの暗部に会うのだから。さぁ、任務報告に行って、それからあったかいラーメンを食べに行こう。
迷いのない足取りでイルカは本通りの繁華街へと駆け出した。
翌日、イルカはスリーマンセルの仲間のヒラマサからちょっとした事件を聞かされた。昨日の夕刻、里外れで轟音が響いたのだそうだ。警備の忍びがかけつけると旧道脇の子引き観音堂が粉々になり本尊の観音像が焼け焦げていたとか。忍びが術を使った形跡もなく落雷だろうと結論づけられたが、雷が発生するような天気ではなく、皆、首を傾げているらしい。
「更地にするんだってさ」
ヒラマサはそう言った。
「もともと変な噂がある観音だったし、これを機会にあの辺り綺麗に整備しなおすんだと」
「変な噂って?」
「え、知らねぇの?有名な話」
思わず聞き返したイルカにヒラマサは呆れた顔をする。
「神隠しだよ。子供がいなくなんの。だから子引き観音って呼ばれてたんだよ。昔っからオレらもあの辺りで遊ぶなって親に言われてたじゃん」
「……でもミズキは」
じゃあ何故ミズキはあんなこと言ったんだろう。寂しい子供を観音様が救ってくれるのだと。
「ミズキ?」
「いや、なんでもない」
イルカは首を振った。ミズキはただ自分が聞いた噂を教えてくれただけなのだ。
「でもさぁ、整地しても気味悪くね?観音堂の跡地だし、祟りとかさぁ」
ヒラマサが両手で体を抱きしめるようにして震える真似をした。
「ゼッテー祟るよな、気色わりぃって」
「祟りはないよ」
「へ?」
断言したイルカにヒラマサがきょとんとなった。
「なんで?」
「だって子引き観音、やっつけられちゃったし」
「はぁ?」
暗部の兄ちゃんの手がバリバリ放電してた。あれは雷遁だったんだ。焼け焦げた観音は兄ちゃんがやっつけた証拠だ。
「だから絶対大丈夫なんだ」
「お前、何言ってっかわっかんねぇ」
イルカはへへへ、と笑うとヒラマサの肩をバシンと叩いた。ヒラマサには悪いが子引き観音をやっつけてくれた兄ちゃんのことはイルカだけの秘密だ。
「さ、任務行くぞ任務」
「おっおう」
胸にぽかりと空いていた穴が塞がったような不思議な気分だ。いつか、兄ちゃんに会った時、一人前の忍びになったと褒めてもらえるよう今はただ頑張ろう。
「ヒラマサ、おいてくぞー」
「なに張り切ってんだよ、おい、イルカーー」
いつか会える日のために自分は真っ直ぐ生き抜いてやるのだ。誓いを胸に澄んだ冬空に向かってイルカは拳を突き上げていた。
「うみの先生、大丈夫ですか?」
「イルカ、少しは落ち着けよ」
「あ?いや、オレは落ち着いてるぞ、至極平常心だぞ」
16歳で中忍昇格を果たしたイルカは念願のアカデミー教師になっていた。同じスリーマンセルのヒラマサも同僚だ。かってイルカに子引き観音の噂を教えたミズキは里を裏切り今は牢につながれている。そして、そのミズキが陥れようとしたうずまきナルト、九尾の器となっている生徒の、今日は上忍師試験の日なのだ。
「後は七班の結果待ちですか。しかし、今年の卒業生は優秀ですよ。もう二組、合格してますからね」
主任が満足げに言った。年かさの教師が頷く。
「上忍師試験合格者なし、なんて年もありますからね」
「あのオレ」
ガタン、とイルカは立ち上がった。
「ちょっと迎えにいってみます」
そのまま職員室を飛び出す。そう、ナルトのことが心配だ。皆から疎外され、それでも一生懸命前に進もうとする子供のことをイルカは愛おしんでいた。ナルトの合否が心配で落ち着かないのは事実だ。だが、イルカの気がそぞろなのはもう一つ理由があった。
兄ちゃんかもしれない…
七班の試験をしているのは上忍はたけカカシ、写輪眼のカカシと呼ばれる里のトップ上忍だ。三代目からはたけカカシの資料をみせてもらった。資料の写真は小さくて、しかも片目を額当てで隠しているのでよくわからなかったが『兄ちゃん』に似ている気がした。以来、あの時の暗部とはたけカカシ上忍の姿がどうしても重なってしまう。『兄ちゃん』は色違いの不思議な目をしていた。あれは写輪眼だったのではないか。そしてはたけカカシの髪も『兄ちゃん』と同じ逆立つ銀髪だ。毎日はたけカカシと『兄ちゃん』のことでイルカはぐるぐるしていた。そしてついに今日、それを確かめられるのだ。
イルカは本部棟の入り口に立った。道向こうを見やってもまだ七班の姿はみえない。伸び上がって七班の、そしてはたけカカシ上忍の姿を探しながらふと、不安が胸をよぎった。
兄ちゃんだって確かめてどうするんだ、オレ…
イルカにとってあの銀髪の暗部は心の支えだった。もらった狗の面は大事にとってある。だけどあの暗部にとってイルカはたまたま行き会った「クソガキ」だ。覚えているという保証なんかない。
いや、もし覚えていたとして、だから何、みたいな態度を取られたらどうしよう。そんなことになったら立ち直れない。
いや、そもそも自分は『兄ちゃん』に会って何をしようというのだ。はたけカカシと言えば自分達中忍教師が口なんかきける相手ではない。そんな雲の上の忍びにいったい自分は何を言うつもりなのか。
そう思い始めると不安はどんどん大きくなる。悲しいかな、少々世事に疎いイルカには火影としょっちゅう飯を食う間柄だということのほうが重大で珍しいのだという自覚がなかった。
やべぇ…
イルカは胸を押さえた。悪い想像が次から次へと浮かんでは消える。頭を抱えて一人、ぐるぐるしていると突然名前を呼ばれた。
「イッルカせんせーーーー」
ナルトだ。道向こうからナルトが走ってくる。
「オレ、合格したってばよ」
ごっ合格?
ブンブンと手を振りながらナルトがこっちへ向かってくる。
「合格したんだってばー」
「ナルトォォォ」
思わずイルカも駆け出した。
「そうか、合格したか、お前たち合格か」
ナルトの後ろにはサスケとサクラが続いている。イルカは飛びついてくるナルトを受け止め、サスケとサクラを一緒くたに抱きしめた。
「合格したか、そうか、よくやった、おめでとうっ」
きゃあきゃあとサクラが黄色い歓声をあげ、サスケも照れくさそうな顔をする。
「よかった、よかったなぁ」
わしゃわしゃと三人の頭をかき回しているとふっと目の前に長身の男が立った。
「カカシ先生だってば」
ナルトが言う。おそるおそるイルカは顔をあげた。
ちゃんと挨拶しよう。はじめまして、と礼儀正しく挨拶すると決めていた。兄ちゃんであろうとなかろうと、忘れられていようと。
目をあげた先、はたけカカシ上忍は銀髪で鼻の上まで黒い口布をしていた。左目は額当てで隠れているが右目は深い藍色の瞳で、その目は間違いなくあの時の暗部。はじめまして、と言おうとしたが声がでない。ただはたけカカシ上忍を見つめる。カカシの藍色の目がイルカを映す。
「ちゃんと戻れたね」
柔らかい声がした。
「オレもね、戻れた」
目の前に差し出されたそれは青いちりめんの守り袋、イルカがあの時、『兄ちゃん』にあげた守り袋だ。
「これのおかげだね」
覚えていてくれた、守り袋を持っていてくれた。唇が震える。
「にい…ちゃん…」
ただ一言、それだけしか言うことができなかった。目の前がぼやける。泣いているのか、自分は泣いているのか。だめだ、ナルト達がいるのにこんなところで泣いたりしたら…
「イルカ」
忘れたことはない、あの時の声が自分の名を呼ぶ。
兄ちゃんだ。あの時の兄ちゃんだ。
泣き出すイルカの肩を温かい腕が抱き寄せた。
子引き観音の、まやかしの世界で交差した二人の時間が現実の中でようやく重なった。この先、重なった二人の運命がどう推移するのか、それはまた別のお話。
春はまだ浅い。
カカシのこと
「先輩、先輩」
ふっと意識が浮かび上がった。
「起きてください。そろそろ出発です」
ガバリと飛び起きると目の前に後輩がいる。
「珍しいですね、先輩が熟睡するなんて」
木の葉の近くの森、樹上の枝にもたれて休んでいたら眠ってしまったらしい。
夢か…
カカシはガシガシと銀髪をかきまわした。
「あ〜、変な夢みた」
「あれ、お疲れですか?」
黒髪短髪で大きな目の後輩はからかうように言った。確かに、任務帰りの休憩中に熟睡するなど暗部にあるまじきことだ。しかも夢までみるなんて。
「ん〜、疲れてるわけじゃないんだけどねぇ」
コキコキと肩をまわす。
「いや、夢の中で雷切ぶっ放したから疲れたのかな」
「は?なんです?その物騒な夢は」
立ち上がった後輩がふと、首を傾げた。
「先輩の狗面、どうなさったんです?」
「え?」
頭に手をやる。跳ね上げていたはずの面がない。自分の周囲にも見当たらない。
「え、あれ?」
「先輩、もしかして樹の下に落としたとか」
「いや、まさか」
「僕、見てきます」
マメな後輩だ。しかし、いくら熟睡していたからといって面を樹の下に落とすだろうか。パタパタと体をはたいていると、懐に何かがあった。青いちりめんの守り袋だ。夢で会った黒髪の少年がお守りにとくれた守り袋。
「……夢じゃないのか」
花の中に咲いていた親父の手作り菓子、頭のてっぺんで黒髪を一つくくりにした少年、あれはすべて本当のことだったのか。
『兄ちゃん』
少年の声が蘇る。
『兄ちゃんも寂しかったの?』
幻の声にカカシは小さくこたえた。
「寂しかったんだろうねぇ」
だけどまやかしの安らぎはいらない。だから雷切でぶった切ってきた。あの子は無事に帰れただろうか。いや、帰ったはずだ。カカシは立ち上がり樹の下の後輩に声をかけた。
「テンゾウ、出発するよ」
「え、でも先輩」
「面はそこにはない。あげちゃったからね」
「は?」
「ほら、とっとと来る」
カカシは枝を蹴った。
「ちょっ、ええ?せんぱーい」
大慌てで後に続く後輩の声がするがほっといて里へ駆ける。あの少年、イルカといった。無事に木の葉に帰ったならば必ず会えるだろう。いや、探してみてもいい。なんたってフルネームを教えてもらった。
うみのイルカ
里に帰る楽しみが出来たかもしれない。知らずカカシの口元には笑みが浮かんでいた。
おわり |